潮時


 とにかく北へと歩いていくしかないのではないだろうかと結論づけたときにはほとんど昼みたいな感じになっていた。もしかりに、まだまだ朝だ、なんて言い張ったあかつきには朝のあらゆることのみに癇癪持ちの傾向があるだれかを、結果的に泣かせてしまうかもしれない。その程度は今が昼だといってもさしつかえはなさそうだった。

 こんなことは率先していうべきではないのかもしれないけれど、そろそろ記憶海岸を眺めているのにも飽きあきしてきた。なんてったってそこにうつり、うち寄せ、揺らめいているのはこの僕の記憶なのだ。だいぶ以前の、未熟さゆえにひどくみじめな思いをした記憶などがうち寄せてきたときには、なんてものを掘り起こしてくるんだと腹を据えかねて腐った目玉焼きを思い切り投げ込んでやった。もちろんその投げ込んでやった目玉焼きも僕の記憶だった。記憶に記憶をぶち込んでやれば記憶もすこしは動揺するんじゃないかとせめてもの期待をしたけれど、記憶は無慈悲にも波となって途切れてなくなっている不可知の沖に引いていった。

 このけったいな海岸をつくった当のいるか様はこの場所に何を託したかったのだろう? どんな願望をここに籠めようとしたのだろう?

 考えたけれど、やっぱりわからなかった。それはいるか様の記憶の中にしかないし、いるか様はもうこの世にはいないみたいなのだった。もうこの世界のどこにもないのかもしれない。

「そろそろ行くよ」

 僕は「僕の部屋のベッド」から立ち上がっていった。

「僕は北へ行くしかないんだ、たぶん」

 五〇〇番は何もいわなかった。オーツ麦の髪が風に揺れた。

「きみはどうする? ここに残るかい?」

「わたしはいるか様の命に従います」

 五〇〇番は正午の鐘の音のような調子でいった。

「ええとね、僕はきみにとってのいるか様なわけだけれど、きみにとってのいるか様は別のいるか様で、そのいるか様は通行止めをしてほしくて、そのいるか様はだいぶ前に死んでしまったということだったはずだ。だから僕はきみの主人ではないし、きみを従えるつもりもない。あとは、きみが決めていいはずなんだ」

「では」五〇〇番はいった。「わたしはこれからどうすればよいのでしょう」

「どうすればいいんだろうな」

 五〇〇番は答えをもっていないようだったし、もちろん僕ももっていなかった。

 実をいうと僕はこれまでロボットと一緒に生活したことがなかった。僕には必要のないものだったし、僕の生活がロボットにとって喜ばしいことになるとも考えにくかった。たしかにロボットは便利だということはありふれた事実であり、僕とてその程度のことはじゅうじゅう理解していた。かえって便利だからこそ無意識的に避けて通ってきたのかもしれない。そんな風にも思ったが、よくよく考えてみるとそれも違うような気がした。

「きみの以前の主人だったいるか様はほんとうに死んでしまったのか?」

 ふと、あることにかんして純粋な疑問を覚えたので訊いてみた。

「はい、確かにそのような情報を認識しています」

 そのような情報。

「それはほんとうのほんとうに確かな情報なのか?」

「理解できません。どういうことでしょうか」

「つまりね」

 つまり、と切り出したはいいものの僕はあまり頭がよくないので、数秒間どんなことをいおうか考えてから、何とかつづけた。

「つまり、それはただの情報でしかないわけだ。きみがその情報を受け取り、きみがその情報を記憶することで、それはきみの中で事実として根付いた。それだけのことなんだよ。いるか様が死んだという、それがほんとうに起こったのかどうか。もしかすると『いるか様が死んだ』という文字とかそういう情報があるのにすぎないのかもしれないし、ばらばらの断片的な情報が寄り集まってぐうぜん解析可能となったジャンク情報みたいなものがきみの記憶領域に紛れ込んできたのかもしれない。いずれにせよ、きみはいるか様が死んでいるまさにその体やら魂やらを確認したのかってことさ」

「情報として死んでいるだけではないのか、ということでしょうか」

「たぶん」僕はいった。「きみのもっている情報の上では死んでいるんだ。その情報としての死が、生身の肉体の死をかならずしもともなうとは限らない」

「よくわかりません」

 表情こそ変わらなかったが、彼女はいささか当惑しているようにも見えた。彼女はいった。

「それは、死んでいる、ということにはならないのでしょうか」

 わからない、と僕はいった。

 北からの風が威力を増してきていた。そろそろここを経つ潮時かもしれないと僕は思った。僕たちがいるこの場所は生きていることと死んでいることを考えるには開放的にすぎる感じがするし、生と死をすっぱりと区別してしまうのはこの世でいちばん難しいことだった。

 北から風が吹いてきた。

「僕の弟かもしれない」

 五〇〇番は何もいわなかった。僕が言葉をつなぐのを待っているようだった。

「きみの以前つかえていたいるか様は、僕の弟かもしれないなって、そう思ったんだ。間抜けな話のような気もするけれど」

 僕はへらへらと笑っていった。なおも五〇〇番は存在を無にして黙っていた。

「いったかもしれないけれど、僕は弟を探してるんだ。だから北へ向かってるんだよ」

 それからは僕もしばらく同じように黙っていたけれど、僕の沈黙と五〇〇番の沈黙はどこか意味あいがすれちがっているみたいだった。どこまでも僕は人間で彼女はロボットだった。