少年と猫


 そんなわけで、僕と五〇〇番は記憶海岸に別れをつげてまた北へと歩き出した。聞いたところ記憶海岸というのは仮の呼び名で、工事がしまいまで完了してから正式な名前を決めるつもりだったらしい。いずれにせよ「タツノオトシゴ・プロジェクト」とか「大日本帝国」とか「猫の毛並み百科」とかにはならなかっただろうから、記憶海岸というのはまあ妥当な名前じゃないかと思う。

 さようなら、記憶海岸。

 少しだけれど空気が冷えてきていた。合わせて丸々一日くらいはあの四つ辻から歩いてきたのだから、もうだいぶ北の国に近づいているのではないかと思う。ほうとこもった息を吐き出すと見えるか見えないかほどに白くなった。足腰に疲れとか痛みとかいったものは全くなく、そのことに気づいてからおくれて驚いた。僕は昨日から着ている薄手のブルゾンのポケットに両手をつっ込んで体にこすりつけた。服や下着なんかも記憶海岸でかえてくればよかった、と僕は思った。だがどうやっても服や下着のことを思い出すのには苦労したし、あまりそういうものをイメージするのは気が進まなかった。まあこんなものだろうくらいの何かを実体化できるほど鮮明に思い出そうとするには、わりとたくさんの精神力を費やさなければならない。まあ、さっきまでは服や下着をかえようなんて思いつきもしなかったのだけど。後ろを振り返ると、記憶海岸はどこにも見えなかった。やはり海岸というのはあんな荒野のど真ん中などではなく、海にあるべき地形なのだ。

「まだあそこは通行止めのままなのか?」

「はい。工事が完了するまで」

「じゃあ、後ろからはだれも来ない」

「はい。鋼鉄のゲートが塞いでいます」

 五〇〇番の息は白くならない。

 驚くべきことに、行く先に建物が立っているのが確認できた。ちょっとした町だろうか、と思って近づいていくと町ってほどでもなく、ちょっとした集落かな、とさらに近づいていくと集落よりもかなり小さな感じで、さらに行くとみすぼらしい掘っ立て小屋とひとりの少年がいるだけだった。少年の手にはこはく色のどうやら食べ物が握られていて、かれの前には深い紺の猫が座っている。

「こんにちは」僕は少年に声をかけた。

「こんにちは」猫はいった。

「猫が好きなんだね?」僕は少年にいった。

「大きらい」猫はいった。

「それなら、どうしてえさをやっているの?」僕は少年にいった。

「太らせて食べる」猫はいった。

「猫は食べられないんじゃないかな」僕は少年にいった。

「ニワトリは太らせて食べた」猫はいった。

「ニワトリは食べられるけど」僕は少年にいった。

「猫も食べれる」猫はいった。

「おいしくないはかもしれない」僕は少年にいった。

「まずい。まずいっていう。くさい。くさいっていってやる」猫はいった。

 少年はやさしく猫を撫でている。猫は気持ちよさそうに少年の手に身をまかせている。少年の右手は猫を撫でていて、左手は腕から先がちぎれていて緑とか赤とか銀とかいろんな色のコードやケーブルや骨組みがぐにゃぐにゃと垂れさがっている。

 ああいうふうに中味が見えてしまうのはそうそう気持ちのいいものではないな、と僕は思った。コードやらケーブルやら骨組みが簡単に見えてしまうかわりに、ほんとうに大事な中味がかえって見えづらくなってしまうような、そんな気がした。ほんとうにだいじなものは目にみえない。

 建てつけが悪いようで、いつまでも小屋は軋んで音を立てていた。そのうちすべて砂になって飛んでいってしまうのかもしれない。その横で、少年は猫にえさを与えようとしていた。それは少年の体の一部なのだと、よく観察しているとわかった。猫はそれを口にいれて咀嚼した。僕は歩き出した。五〇〇番もそうした。

 何となく白そうだった息が、もう少しだけ白くなってきた。

「猫がしゃべって、なんだか変な感じだった」

「少々特殊なパターンではありましたが、そのようでした」

 おせっかいなことに、特殊なことにも特殊なパターンがあるようで、僕はうんざりした。そういうものなのだろう。でもそんなことはよくて、なんというかしだいに北の雰囲気がひしひしと感じられてきた。

「わからないけれど、もうすぐ国境が見えてくるんじゃないかという気がするよ」

 僕はあまり顔には出さないように期待を込めて、五〇〇番を見た。すると、彼女はとても美しい動作で後ろを振り返った。

「後ろに見えます」

 五〇〇番は事務的にいった。少年が猫を撫でていて、猫は少年を見上げていた。僕たちは北の国にやって来た。