ひとまず朝食を記憶海岸から用意してそれをなんとなく食べてしまうと、頭の中にあるもっとも現実に近い部分が空っぽになってふわふわしているのがわかった。朝は人を冷静にするし、昨日までのできごとを一度リセットしようとしてやっぱりリセットしないでおこうという中途半端な工程の結果に直面させる。さらに今朝の僕の場合、四方数キロにわたって視認可能な大地の、自分から見ればその中心で目が覚めるというのはなかなかに可笑しな体験で、今まさに僕は可笑しくてしかたないのだけれど、顔はまったく笑えていなかった。
僕はいったん考えを整理整頓するべく、傍で控えている五〇〇番と話をすることにした。
「おはよう」と僕はいった。まだちゃんといってないような気がしたのだ。
「おはようございます」と五〇〇番もいった。
朝にこうしてだれかと会話をするのはかなり久びさだったから、どういうことをいえば朝の会話としては要を得るのだろうかと考えなければならなかった。天気の話、その日一日の大まかな予定、何時に家を出て何時に家に帰るのか、世界の情勢について、株価やデリバティブの今後の展望、犬が散歩に行きたがったって跳びはねている、果実酒の空き瓶が転がっているから水でゆすいで捨てないと、など。それに、ここにはありがたいことに前提条件もあって、というのもここは家ではなく町でもなくそもそも建物はなくて、あるのは記憶海岸と「僕の部屋のベッド」と僕と五〇〇番台のロボットだということだ。考えを纏めるために考えて、またまた考えて、とやっているうちに、われわれは本来の目的をどんどん忘れていってしまうのかもしれない。ふと、僕はほんとうの最初に何を考えたのだろう、と思った。生まれてきて最初に考えたことが、天気とか、株価とか、そういうつまらないことじゃなければいいのだけれど。
それはそれとすることにした。
「今日は良い天気になるだろうか」
「七十五パーセントの信頼区間において、一日快晴がつづきます」
「残りの二十五パーセントは曇りか雨かな。それともみぞれとか、通り雨がくるとか」
「未知です」五〇〇番はいった。
「なるほど」僕はいった。
やはり慣れないことはすべきではないし、慣れたいと願っていないことにわざわざ取り組む必要もないから、話題を変えることにした。
「きみはどこの生まれだい?」
何だか僕が彼女に質問するばかりだ、とどうにも腑に落ちずに思った。どうやら人間とロボットが初対面から知り合いに発展するためには、人間がロボットに質問するばかりになるらしい。
「工場です」五〇〇番は答えた。
「どこの?」また質問だ。
「北の国の象牙半島の端にある工場です」
「北の国には象牙半島なんてものがあるのか。地図が入手できないものだから、知らなかったよ」なんとかセーフ。
「はい」五〇〇番はいった。「それは長く優雅なカーブをえがきながら、北の冷たい海に迫り出ています。とても自然が豊かで、様々な種類の草木や動物が生息しています」
なんだかそわそわしてきた。
「今日の株価は?」僕はいった。
「昨日の終値でしょうか。そうしますと――」
「いやまちがえた。どうかしてる。あのさ、ちょっとまちがえただけだから、株価のことは忘れてもらっていい」
「承知しました」
あまりにもつるりと株価の話をしはじめた僕を、僕は瞠目してすぐに訂正した。なんてったって株価のことなんていったりしたんだ? 朝のせいか? 僕は記憶海岸からいれたてのニルギリのストレートを出してきて、飲みながらひと息ついた。葉の香りが喉をつたって胃に落ちていくのを感じていると、だんだん落ち着きが回復してきた。そうさ、焦る必要なんてないのだ。ただ朝早くに起きて、頭の整理のために五〇〇番とたわいもない話をしているだけなのだから。何も気負うことなんてないのだ。いや、そうさ。頭で考えて話すからだめなんだ。もっと自由に、思うままに、僕のしたいように……
僕は今、こんなところで何をしたいのだろう?
「僕はこれからどうすればいいのかな?」
僕はいろいろとあきらめ、五〇〇番に質問した。
地球の天蓋にひそむ青や白や薄い青の模様をかいくぐって、朝日はますます上をめざして昇っていっていた。朝日がすっかり昇りきってしまえば、それはもう朝日ではなくなるのだろうか。
「北へ」
五〇〇番は僕にいった。