「それ」は象牙のような形をしたかと思うと、次の瞬間には百合の花を象っていた。僕はその時驚くべきことに、象牙のことを考え、百合の花の印象を意識していたのだった。すでに日は落ちて、月明かりがきらきらと水面を揺らしていた。なかなか神秘的で魅力的だった。
「記憶海岸なのか、これは」
僕は神妙な面持ちで五〇〇番を見た。
「そうです」
「なんだよ記憶海岸って」
さいわいなことに遠近感が狂ったりはしておらず、おそるおそる岸辺に近づいていった。五〇〇番もついてくる。
「これは記憶海岸です。その名の通り、記憶をうつす鏡であり、記憶のうち寄せる海岸です」
「だれの記憶なんだ? 記憶っていってもどいつもこいつも反映してるようには見えないけど」
覗き込むと、さざ波の背後に薄もやが渦巻いている。あっちこっち好き勝手にではなく、ある種の統一性を保っているように、「それ」は見える。
五〇〇番はいう。
「いるか様です」
「またそれか……」
やれやれと指で眉間をつまんでいると、ざぶんと大きな音がして、見ると波打ちぎわで一頭のいるかがジャンプしていた。体表が月光に淡く艶めいて、一瞬間きらめいた。水の奥に潜っていった後も、揺らめきながら水泳する影がよく見える。
「十二年と三日前、いるか様はここに記憶海岸をつくろうといいました。そしてつくり始めました。海岸でなくてはならない、といるか様はしきりにいいました。うつし、うち寄せ、引いていく、そういう海岸でなくては意味がない、と。三時間後、ほぼ完成というところで、いるか様にアクシデントが発生しました。いるか様は北へと至急戻らなければならなくなりました。そこでわたしに命令を与えたのです。ここを通行止めにするように、と。あともうすこしで完成だから、その時まで、と」
「とすると、きみが通行止めをつづけていたということは、まだ完成してないということか」
「いるか様」
五〇〇番は急に語気を強めていった。
「なんだ」
そして、戸惑うようにいった。
「あなたは、いるか様ではないのでしょうか」
僕は即答しかけた。そうだ、と。けれどそれは正しくないのではないかと思い直して、十数秒間黙っていた。この問いは、僕にとっては当たり前の問いだけれど、彼女にとっては当たり前なんかじゃない、ごく革命的な、人間的にいえば勇気のいる問いなのかもしれない。
「いるか様は、いまどうしてるんだ」僕はいった。
「五年と二三〇日前に死去しました」五〇〇番はいった。
「そうか」
僕はそれからしばらく何もいえず、ただ記憶海岸を眺めていた。おそらく五〇〇番もそうしていた。いるかの影は見えず、緑柱石の劈開面みたいな水面に歪に捩れた月が浮かんでいるだけだった。海面にうつる月の像はひとつところに留まっているように見えたけれど、微動だにしない水の鏡の一点を目印にして待つとすこしずつだがそれは一定の方向に移動していた。
「こいつは、この記憶海岸は、まだ完成してないんだったな」
「はい」
「どのへんがまだつくり終わってないのかな」
「わかりません。いるか様はいっていました、一番だいじな部分が欠けているんだ、しっかり見張っておいてくれよ、と」
五〇〇番は記憶海岸を眺めるのを止め、僕のほうを向いた。僕もならって彼女のほうを見かえした。
「一番だいじな部分、か」
眼下に横たわっている「それ」は、まだ一番大事な部分が組み込まれていないという事実によって、気のせいか工事現場然としていた。なるほど、これは「工事」なのかもしれない。
「それはたぶん、とってもだいじなことなんだろうな」
「はい、わたしもそう思います」
「そうか」
僕は僕の一番大事なことを思い浮かべようとした。いろいろなものが記憶の底から上がってきては、ふたたび沈んでいった。それにあわせて海岸にも、いろいろなものが浮かび上がり、底へと沈んで影になり、暗闇に消えた。
結局、月の影だけがうつっていた。