明太子と高菜の博多風スパゲティ

 

 最近の本です。ちゃんとやっていく2020。

 

 

『動物からの倫理学入門』伊勢田哲治

 

動物からの倫理学入門

動物からの倫理学入門

 

 

 昨年序章だけちら見してそのまま数キログラムの可燃物のしたに埋もれていた本。
 でも何故手もとに置いておこうとしたのかはかろうじて憶えていた。自分のなかであいまいなまま認識されていた動物という存在へたいしての眼差しをとらえなおしたかった、ということだった。それがまず主目的で、加えてタイトルにもあるとおり「倫理」というのも無視できなかった。ぼくは部屋のたくさんの歴史をあらわしている埃をたくさんかぶりながら、数キロのしたから引っこ抜いた。
 あいまいな眼差しというのも、ぼくはペットというもの、それから動物園というものに、それらの(これまたあいまいではあるが)倫理的な存在理由を見出せずにいた。それはぼくが幼少から一匹の犬と毎日生活してきたからかもしれないし、動物園というものが小学校の遠足としておとずれるほど基礎的なテーマパークとして街の風景の一画をになっているからかもしれない。
 ときどきハッとわれに返っては、ペットを飼うとはどういうことなのだろう、とか、檻に閉じこめられた動物たちを指さすわれわれ人間たち、とかいうことを考えて、立っている地面がヌチャヌチャと不安定になってしまう。そういうのってなんだか気持ちが悪いね、ということです。

 

 閑話休題
 本書は、タイトルの通り「動物」という対象をいわばダシにして、倫理学の概観へとフィードバックしましょうよ、というぼくにとってなんとも親切設計なつくりになっている。あまりにもうってつけだったものだから、なんとなく逆張りの精神が顔を出して「でもそういうオトクな物件ってのはどこかしら落とし穴なりごまかし、、、、なりがきっとあるんじゃないの~~~?」といういつものわるい癖が出て、これまたなんとなく読まずにいたのである。つくづくしょうもないと思います。
 読んでみると、とてもいい内容でした。ちゃんと読め。
 
 書いてある内容をぼくがせっせとまとめても特に何の役立ちにも発展しないし、そもそもそんな処理能力もないので、おっ、となった箇所をざっとおさらいしていく感じで。
 まず前半部は、倫理学のほんとうに基本的なフィールドマップ。倫理学という学問は、メタ倫理学、規範倫理学、応用倫理学といったふうに三段階に分かれていて、進むほど応用的なものになっていきますよ、というもの。順に、倫理とは? どう生きれば? 分野ごとの倫理的正しさは? がその焦点になる。要所要所で動物を例に具体的な解説がはさまれるので、わかりやすいっちゃわかりやすいのかな。難しい用語はさておき、どの階層にもおおまかな対照関係が存在する。認知(たとえば自然主義的だったり直観的だったり)か非認知(情動的だったり指令的だったり)か、帰結的(まあ功利主義のこと)か義務的(まあカント主義)か、あとはロールズさんとかノジックさんとかが登場する。契約説を土台に据えたり、ダーウィン進化論の応用型やゲーム理論をもとにした組み立て。合わせ技につぐ合わせ技。このへんは目的を定めて反復して読まないとちゃんとした理解には至らない。いろんな人が統一的であろうと試みた結果誕生したいろんな考え方があるぜって話。フムフムといった感じ。学問だ。
 個人的によりフムとなったのは、倫理的相対主義ってやつと、自然主義的誤謬ってやつと、普遍化可能性テストってやつ。
 倫理的相対主義にかんしては、序文のコラムで取り上げられていることからもわかるように、これは知っといたほうがいいね系のこと。倫理的相対主義とは、かんたんに言うと、「何が正しいかなんて基準はないのだから、何でも好きにしたらいいじゃん」という立場のこと。これがやっかいな立場で、というのも、「何でも好きにしたらいい」が絶対的な価値判断なのか相対的な価値判断なのか定かでなく、仮に絶対的な価値判断だとするなら、それがそもそも「何が正しいかの基準はない」の判例になってしまうし、相対的な価値判断なら「好きにしたらいい」も「好きにしてはならない」もどっちも好きにしていいことになり、相手にたいする説得力が消滅してしまう。どんな前提を置いても、価値判断のジレンマが発生する。おかしいね、ということ。まあここまで読めばなんとなくわかると思うが、こういうジレンマをいかにしてうまく解消していくのかが倫理学という、倫理学的思考というものなんですね。こりゃあ一本取られちまったな、ハハ……
 自然主義的誤謬ってやつと普遍化可能性テストってのは、前提としてヒュームの法則やらなんやらを知っていないと記述しにくいので、省く。言語化が面倒くさいだとか、真に理解しきれていないとか、そういうことでは断じて、ない。
 そして後半部は、人間-動物間における福利や倫理的問題にややフォーカスした内容になっている。先に言ったペットや動物園という実質的にせまいところから敷衍して、動物実験や菜食主義、肉食と工場畜産などの現実的な側面を、前編で学んだ倫理学をもちいて考えていく。つまるところこうした問題は、「こういう立場だとこうだし、こういう破綻がある。逆にこういう立場だとこうだし、今度はここのところが破綻ちゃうね」の羅列、というと無責任な気もするが、これというひとつの正解が存在しない以上、そういうことになる。しかしながら、基礎中の基礎とはいえ、さまざまな主義や価値論にふれていると、これはこうだよね、のひとつ先にたどりつけるような、そんな希望が見えそうになる。もちろんそんな光はたんなる一街路灯なのかもしれない。でも、ひとつひとつその街路灯を延ばしていけば、そこはれっきとした明るい道になるのである。…………と、きれいなことはこんな感じでよろしいでしょうか。考えて勉強してを繰り返せということだよ面倒くさいですね。
 あとひとつ、全体を通して外してはならない課題が、限界事例、というもの。それというのも、赤ん坊や知的におくれている人間のことをいいます。どうして外してはならないのかというと、限界事例の人たちは知的な言語能力をもたず、動物倫理を考えるうえで欠かせないといってもいいさまざまな要素(幸福や苦痛、「死」を理解し恐れること、など)の動物との境界線が非常にやっかいなことになってしまうからです。極端な話(これがそれほど極端でもない)、動物を殺してもいいなら限界事例も同様、ということになってしまう。動物倫理を考えるには、もちろん倫理だから統一性がとても重要な根っこである以上、限界事例をどうあつかうのかが最大の課題といっても過言ではない。

 

 というわけで、こんな感じでした。けっきょく何もわからないままだが、わからないことをどうにかして考えていきましょう。

 

 

 

 

 もう一冊。
 
『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』大江健三郎

 

われらの狂気を生き延びる道を教えよ (新潮文庫)

われらの狂気を生き延びる道を教えよ (新潮文庫)

  • 作者:大江 健三郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1975/11/27
  • メディア: 文庫
 

 

 大江の連作(といってもいい)短編集。
 なんというか、大江の小説にいちいち感想を述べることへの野暮さと、言わなければならないことの多さからくる脅迫的な吐き気(比喩です)が、ごちゃごちゃになって、ぼくにはまだ文字にして語れることがない。というか小説全般がそんな感じ。まいったね。
「生け贄男は必要か」「狩猟で暮したわれらの先祖」が作品としてはとくによかった。「父よ、あなたはどこへ行くのか?」でフランス人の女装男の勃起したペニスをサイドブレーキとまちがえて思いっきり握るシーンはマジでよかった。最後の肥った親子もほんとうの切実さがあった。
 

 

 そんな感じでした。