第八話 イトーヨーカ堂のあたりを徘徊する小さな青い女児


『ブラザー複合機』は「もんのすごい音」がしたところで変わらず普段どおりのイトーヨーカ堂の出入口に見るに堪えない恰好で立っているように存在した。『ブラザー複合機』が道案内をした、イトーヨーカ堂に用があったとしか推察できないあの声の高い男は「ションベンくせえ」と喚いて出て行ってしまった。『ブラザー複合機』は数度まばたきをするような仕種で聞くに堪えない奇音をボディから断続的に発生させ、そしてすぐに振り返った。『ブラザー複合機』はイトーヨーカ堂に用はなかった。自分を棄てた以前までの主人を見つけて、かれの部屋に戻ることに決めたのだった。

 イトーヨーカ堂を出て露天のエスカレーターのわきを通っていると何度か地鳴りのような響きが轟いたが、行き交う人々は何等気にしていない素ぶりであることから『ブラザー複合機』もそれに合わせて進んだ。すれちがう人々はもれなく、どうしてかはわからないが悲嘆に暮れ果ててしまっているような姿勢のそれをちらと一瞥した。

 ――こんにちは。

『ブラザー複合機』は声のする方向とはまるで逆を向いて耳をすませた。

 ――こんにちは、ブラザー。わたしはいるかよ。聞こえてるわよね、ブラザー?

『ブラザー複合機』は一瞬でその青い声の内容を解析し理解したので、その旨を自ら用紙に色刷りしてそれをいるかに差し出した。ざっとそれを一読すると、いるかは満足そうな顔をして道向かいの石塀の向こうにぶん投げた。その放物線はピンポイントで憐れなオランウータンの脳天を直撃し、そのことは全速で駆けていた動物のスピードを緩めるばかりでなく、その紙くずを開いてしまった動物にその中味から伝わってくる言葉というものの異次元の可能性を目撃せしめたのち、それはそのまま横すべりの運動エネルギーを失うはるか前に気絶した。

 ――可哀想な人間ね。あんなもので気絶してしまうなんて。

 あれは人間ではないと『ブラザー複合機』はいるかに耳打ちするように電子回路を一部狂わせると、かの女は驚いた顔をしてオランウータンと『ブラザー複合機』を目で往復した。

 ――じゃあ、ブラザーも人間ではないの? もしかして。

『ブラザー複合機』は沈黙した。いるかはそれをおそらくは熟慮だろうとうけとって、梳き流れる髪をさらりと耳にかけ、ふたたび泳ぎはじめた。オランウータンを熱心に見つめる視線を尻目にして『ブラザー複合機』もかの女につづいた。

 太陽が光を滲ませながらすでに空の天辺に差しかかっていた。『ブラザー複合機』は少し悩むような間隔をおいた後、いるかに主人の捜索をしたいということを伝えた。

 ――なるほどね。ブラザーを棄てた人間を捜して、かれの部屋に戻りたいと。

 足を軽くぶらぶらと揺すった。

 ――それはいいけれど、ブラザー。ほんとうにそれでいいの?

 返答として『ブラザー複合機』は目に見えない程度に進むスピードを上げた。夜になる前までにやりとげてしまいたかったのだ。

 ――……わかったわ、手伝ってあげる。なにか手がかりはあるのかしら?

『ブラザー複合機』は沈黙した。今度はいるかにもそれがどういうことかすっかりわかったし、『ブラザー複合機』にしてもそうと伝えたかったから何の問題もなかった。

 ――やれやれね、ブラザー。

 二人は二人なりの気持ちで、はるか天上に浮遊する太陽をゆっくりと仰いだ。