第七話 相変わらず目は死んでいる


さかなクン』は女販売員がスイングドアをくぐってバックルームに消えていくのを呆然と立ち尽くして見ていた。そして急に白けた気持ちになって、これはこれでわるくないかもな、とつま先でスレートか御影石か判別のつかない床のつなぎ目をいじりながら思った。なにがこれでなにがさらにこれでなにがわるくないのか、それらのどれにもピタリとくるものを当てはめることができなかったけれど。

「とりあえずどんな形にしろ、冷静になってみるってのはだいじだからな」

 そこで『さかなクン』は落ち着いて、記憶を過去にすこし遡ってみることにした。

 

遡ってみよう → 白けた → マグナ=カルタ(大憲章) → コカ・コーラがない → もんのすごい音 → きくらげコカ・コーラだぜいやっほう! → イトーヨーカ堂へ → 市民センターを出た → コカ・コーラは何処だ? → きくらげ → ………………

 

さかなクン』は懸命に頭のなかで(相変わらず頭の上にのっている風船みたいな魚みたいなやつの目は死んでいる)状況を整理しようとした。

「……なんだこりゃあ!?」

さかなクン』は頭をかかえ、話を筋道たてて組み立てるべく平泳ぎのポーズをとって自分なりに考えてみた。すれちがう人々はいぶかしげにかれのことを見たが、まったく気にはしなかった。

 

 つまり、おれは、だいたい、コカ・コーラきくらげ、に振りまわされてるってわけか? そうか…………ム? なぜだ? どうしてそんなことになっちまってるんだ? おれはただ安らかに市民センターの図書コーナーで本を読んでいたはずなんだ。だれかほかのやつとふたりで…………何の本?…………ダメだ、思い出せねえ。ああそうだ、よくよく考えてみりゃあ、おかしな話なんだ。いつの間にか、おれのレーゾンデートルが「コカ・コーラ」にすり変えられちまってるじゃねえか。そういや、おれはさっきまでコカ・コーラが死ぬほど飲みたかったんだっけな…………そもそもおれはどうしてこんな馬鹿みてえにコカ・コーラに執着してんだ? そこからまず変じゃあねえか?…………きくらげ?…………おい! この整理された状況をよく見てみりゃあ、こりゃあ、きくらげがおれの豹変になにか関係してそうじゃあねえか? きくらげ…………ああ、なんだかこいつはまずいぜ。だれかにきくらげについてとんでもねえ話をされた気がしてならねえよ…………とんでもねえ話にしてはなんの変哲もねえんだ、たしか。不気味なんだ…………

 

さかなクン』は「中華材料コーナー」の「きくらげ」売り場に急遽ひき返し、何か手がかりをさがすことにした。冷静になることで状況把握の余裕が心に芽生えたことにかれはほくそ笑んだ。案外すぐに片づくかもしれねえな、いろいろと。まあいろいろ終わって、そん時はコカ・コーラでも飲んでやるか。ここは、「花椒」、「銀杏」、「松の実」、「干しえび」…………

「中華材料」コーナーから「きくらげ」売り場はあとかたもなく消えていた。

さかなクン』は覚った。これまで何ひとつとしてわかることはなかったが、この瞬間にようやくひとつだけわかることができた。

 ここは、何処だ?

「ここは、何処だ?」

 

 かすかに、ダゴゴダゴゴ、という声のような響きがして、それはこちら側に侵入することなく、やまびこのようにして見えない膜の向こう側に当たり、跳ね返っていった。

 

 自身のレーゾンデートルとなってしまっているコカ・コーラ、しかし当のコカ・コーラの存在が消え失せてしまっているどこか知らない世界のイトーヨーカ堂のようなところで、『さかなクン』は生まれたばかりの子山羊のごとく身震いした。