第十二話 霧が晴れて登場するもの


 涙ぐましい努力もむなしく『さかなクン』は途方に暮れていた。言葉? 魔法? 本質? わけがわからねえよ! 今日は途方に暮れてばっかだな、今日、今日はいつまでつづくんだ・・・・・・

 それにしても暑い、霧の奥から太陽の光が、角度のある西日が皮膚を突き抜けて脳内や感情の周辺を灼きつくすような暑さ。体がほてってくる。知恵熱のような(しかしかれは全く思索を放棄していたから)知恵熱ではない正体不明のほてりを体内に育て、瞬間的に枯らせてしまう。霧は晴れない。言葉の魔法は『さかなクン』から離れてはいかない。それは当たり前のことなのだ。言葉は人間のうちに、それも致命的な部分にみっちりと詰まり尽くしている。「牢獄」や「檻」に喩えるまでもなく、言葉はしたたかにかれらの生活を、進行を、絶望を、優雅にそして感傷的に様々な色をもって縛め、目もくらむほどの極彩色に色どっている。

 おれは言葉に振り回される、おれは言葉の意味、言葉の魔法に敏感すぎる、と『さかなクン』は述懐した。突如不安定な霧に切れ込みが入り、コカ・コーラ、イトーヨーカ堂の狂ったマーク、マグナ=カルタ(大憲章)が浮かび上がってきた。おれは言葉の影響を受けすぎる。

 では、するべきことは決まっているはずだ。

「言葉の影響を受けたくありません」

 そう言ってみればいい話なのだ。魔法を言葉の配列にのせ、世界に放ってしまえばいい。きっとそれは、かれ、『さかなクン』のような人間であれば確実に成功するだろう。

 しかし『さかなクン』はそうはしないことに決めた。膝をつき、霧に浮かぶかれ自身の言葉とその副産物、副産物と呼ぶにはあまりにも感動的で実際的な物ごとを仰ぎ見、そう決めた。おれは言葉とともに、どこまでも行きたい。言葉とともに、どこまでも生きたい。それはかれにとって至って自然なことで、春の芝生で戯れる子犬たちの無邪気さを大切に見守るように死守しなければならないことなのだ。

 言葉にうちのめされる圧倒的な衝撃のあまり、ときどきそのことを忘れてしまう、言葉の魔力に屈してしまう、尻込みしてしまう、もうこれ以上先へ進めないのではないかと怯えて縮こまってしまう。そのたびに長く静かな思索的魔法カーブは形を変化させながら、かれの眼前にその姿をあらわす。かれはいくぶん滑稽なスラップ・スティックを演じきった先に、鉱脈を彷彿とさせる発見の機運がそこかしこに埋もれていると信じてそのカーブを繰り返し進む。

さかなクン』の意志が晴れわたっていくのにあわせて大気にへばりついた強情な言葉をかくす霧が徐々に薄らいでいく、と同時に『さかなクン』の心に巣くう仮象レーゾンデートルであるコカ・コーラへの執念がジュッと音をたててかれのほてった胸腔で蒸発した。

 長い一日だったぜ、と『さかなクン』は晴れて薄らいでいく霧をぐるりと眺め回した。両目に溜まりをつくっていた涙が下まつげのあいだを縫うようにしてこぼれ落ち、頬をかすかに濡らした。かれは静かに泣いた。頭にのっているフグは射し込んでくる西日にどこか満足そうな、けれどもその表情は勢いのある光の奥底で静かに黙っていた。ほんとうに長い一日だった。

さかなクン』はもう振り返らなかった。イトーヨーカ堂も、長いカーブも、振り返らなかった。赤青紫の鳩が手を振っている光景が目にしっかり焼き付いていた。それだけで十分だった。

 

 ――ブラザー、と少女の声がした。