第九話 サウス・アメリカン・ゲッタウェイ


さかなクン』は打ちひしがれた。プライスカードや陳列用フックや仕切版どころではなく、そもそもの基底の什器までもがきくらげが並んでいるはずの場所からごそっと丸々脱落しているのだ。『さかなクン』はその場にくずおれた。猛烈な諸感情がこの数時間だけにもかかわらず、ただでさえ過敏なかれの感情センサーにとどまることなく押し寄せていた。きくらげも、コカ・コーラも、どうしておれをほっておいてくれねえんだ、おれが何をしたってんだ…………

 相変わらずコカ・コーラに対する未練は心臓とそのとなりの何かのあいだあたりに残留しつづけていて、そのことがよりいっそう『さかなクン』の心を乱すとともにどこか正常ではない状況を周辺に刻んでいた。赤と青と紫の三色に彩られたイトーヨーカ堂の鳩のマークが等間隔にたつベージュの太い粘土質の支柱に据えられていた。きくらげ、と『さかなクン』は小さく呟いてみた。この言葉この語感にいったい何のパワーがこめられているのか。もしこめられているとしたらどうしてその意味をわからない自分だけがその意味の作用を被っているのか。

さかなクン』は考えるのをやめた。わからないことはわからないのだ。

 店内に一瞬の静寂がひろがり、次のBGMが流れはじめた。「サウス・アメリカン・ゲッタウェイ

「そうか! その手があったか!」

さかなクン』は自らの才覚に惚れぼれとした。同時に「サウス・アメリカン・ゲッタウェイ」に激烈な愛情を向けて感謝した。『さかなクン』は出口をめざして走りだした。逃げるんだ、この狂ったイトーヨーカ堂もどきから! それだけでもう解決じゃねえか? さあ行こうぜ!

 マグナ=カルタ(大憲章)も買っていなかったし、いつの間にか店内には人っ子ひとりいなくなっていたが、そんな微々たることは『さかなクン』の眼中には入らなかった。息が切れ、足腰の筋肉が悲鳴を上げはじめたが構わず走りつづけた。

 逃げるんだ、このイカれちまった世界から。おれは今までどおり『さかなクン』として暮らして、ささやかな幸せを享受するのさ。コカ・コーラへの異常な執着もなく、安定していてバランスのとれた生活を。

 出口にたどり着いた『さかなクン』はハッと息を詰まらせた。ただでさえ呼吸が荒い状態だったため、危うく気絶しそうになったほどだった。というのも、そこには赤と青と紫の色合いをした鳩が立ち塞がっていたのだ。

「勝負をしよう」と赤青紫の鳩が誇らしげに言った。

 勢い余って突っ込んだ『さかなクン』を両手と胸で吸収するように受けとめ、その肩をぽんぽんと軽く叩いてから、赤青紫の鳩はつづけた。

「きみは正しい道に進むことができるかな?」

さかなクン』は2年3カ月ぶりに全力疾走したため、赤青紫の鳩の言うことを一語も聞きとれていなかった。

「なんだって!?」

「勝負をしよう」と赤青紫の鳩は再度ゆっくり丁寧に言った。

「……なんだって!?」

「ええい! ああもういい! 行け! この先どうなっても知らないからな!」

「え!?」

 視界がかすみ、口のなかが血の味でいっぱいになってきた『さかなクン』は気を失いそうになりながらも、ふたたび走りだした。