第十三話(終) さようなら、きくらげ


 僕は歩いていた。そして、歩いている、と思った。地面の反撥が靴底につたわってきて、それだけで何だか気持ちが良かった。結局はそれだけで十分なのだ。

 オランウータンはあれから無事にしているだろうか、勢いよく町並みに繰り出してしまってなかなか危険な賭けをしたものだ。僕はダゴゴダゴゴと口のなかで小さくぎこちなく呟いてみた。僕にはそれは単なるダゴゴダゴゴとしか聞き取ることができなかった。僕は言葉を巧みにあやつるオランウータンに認められ、そうして、オランウータンは僕に失望してどこかへ行ってしまった。何が何やら……

 

 ――ブラザー、わたしの声が聞こえる、ブラザー?

 少し坂道を上った見晴らしの良い場所に出ると、向こうの電柱の陰あたりにイルカと『ブラザー複合機』がかがんでいるのが見えてきた。僕はゆっくりと坂道を着実に進みながらそれらに近づいていった。

 ――見るかんじ大丈夫そうね、びっくりしたわよほんとに。自分から体当たりするように突っ込んでいったんだもの、まるで自ら壊れたがっているみたいだったわ。

「やあ、こんにちは」と僕は手をあげ声をかけた。

「さっきの『ブラザー複合機』じゃないか、何か問題でもあったのかい?」

 ずっと沈黙している『ブラザー複合機』のかわりにイルカが見るに堪えない醜悪なぬめぬめとした奇怪な動きで何かを伝えようとしてきた。そして二度跳ね、ぐるりと右に一回転した。僕にはさっぱりわからなかった。

 まあいいか、と思いなおし視線をそらそうとしたちょうどその瞬間、

 

「!」

 

『ブラザー複合機』が鋭く絶叫した。春の夕暮れに正面から突き刺さっていく、驚くほど澄んだ声だった。明瞭さだけをもつ意味のないその声は空高く舞い上がり、イトーヨーカ堂の六階だてを撫で、町の大気を突き抜けてはるか彼方へとその響きを連れ去っていった。

 そのかわりに一人の男を連れて戻ってきた。

 

「ああ」

 

 やにわに湖面に落ちる水滴の波紋のような末広がりの声がして、そっちのほうを向くとすっかり疲れ切った顔の『さかなクン』がたたずんでいた。

「おう」と僕は言った。「さっきは置いてっちゃってごめんな、あんまりにも茫然自失としてたから、僕がきくらげの話をきみにしたら、急にさ」

 きくらげと聞いたその時『さかなクン』の表情がぞっと蒼白になったかと思うと、僕の背後のある一点に目が釘づけになってかれは完全に硬直した。何かと思って僕は後ろを振り向くと、かれの視線の先には一本の大樹があり、その根元には数枚のきくらげが育っていた。

「ああ、きくらげだね。こんなところにも生えているのかあ。さっきインターネットで調べたとおりの形をしているな。これがきくらげだったんだね」

 しかし、それらはとてもみすぼらしく、ぐったりと萎えていて見るべきようなところは少しもなかった。ただのきくらげきくらげきくらげきくらげ属の、ただのきくらげ、ただそれだけ。

さかなクン』はしばらくそのキノコたちを凝視していた。思いっきり、真剣に、命をかけるようにじっと見つめ、深いふかいそして長いながい吐息をついてから顔を上げた。しっかりと上げた。

さかなクン』の背には『ブラザー複合機』がけっして離れまいとボディを寄せていた。イルカはそんなブラザーを苦笑いをするように苦笑いをして見ているようだった。かれらはかれらなりに何かを見つけ、納得しているように見えた。夕日がゆるやかな連帯を、つかの間の僕らにあたえていた。こういう一日もあるのだ。

 魔法を言葉にするには、魔法のことがわかっていなくてはならない。そう思っていたけれど、案外そんなことはないのかもしれないし、どっちにしたって何か特別に変わるわけでもないだろう。それでも、僕の放った七色とか八色とかの言葉が誰かの心に引っかかることがあるとしたら、僕は何を言うことができるんだろう、何を起こせるんだろう。僕はたったひとりで、みんなと、言葉でつながっていた。

 僕は頭を軽く振ってから『さかなクン』らのとなりに立ち、あてもなく歩きだした。そして言った。

「まあ、コカ・コーラでも飲みに行こうか」

 

 


〈終り〉