第十話 いるかと「観察者」


『ブラザー複合機』は梢の網を透かして入り込んでくる太陽の光と落ち葉の匂いに包まれた小道を進みながら不器用に動揺していた。動揺というものを初めてそのボディに感じていたのかもしれなかった。というのも、それは案内をすることは性能上お手のものであったのだが、自分が案内される側となるとそんなことは今までに一度もなかったし、まるっきり勝手がわからなかったのだ。『ブラザー複合機』は必死に何か言おうともがいていたけれど、傍から見ればそれは実に奇怪で機械的な動きでしかなかった。

 ――わたしね、さっきまで空を飛んでいたんだけれど。

 いるかがゆっくりと口を開いた。

 ――イトーヨーカ堂のまわりをね。そういう習性なのよ、わたし。イトーヨーカ堂って知ってるかしら? あの、赤と、青と、白の、そうそう知ってるじゃない、その鳩のマークのね。でもね、さっき少し様子がおかしくなってしまったような気がしたの。わたしはわかった。ああ、そういうことか、ってね。たしかにいくらか本道を外れてしまっているし、魅惑的な混乱が生じているってこと。あのね、なりやすいのよ。あそこのイトーヨーカ堂にはちょっぴり変った状況ができやすいの。まあわたしもここらに来てからまだ間もないから、あまり詳しくは把握しきれてないけどね。

 ――たとえば、そうね。水族館からイルカが空を飛んで逃げだした、っていううわさ、あるじゃない? そんな根も葉もないうわさをそれこそ真面目に話のなかに組み込むような好事家連中はね、一握りの「観察者」だけなの。つまりは、わたしや、あなた、ブラザーもそういったタイプね。それはまるで次元が違うということではなくて、たんに立場の問題なのよ。立場ね。それはあらかじめ誰かによって定められているものでもあれば、自分で選択するケースも少ないけれどたしかにある。わたしは先のオランウータンが人間ではないことに驚いたけれど、それはとっても表面的なことにすぎないのよ。わたしたちは本質を見失うことはけっしてない。ようするに、ささいな衝撃やなんとかショックみたいなものに動じることはないのよ。それは幸せなことなのか、あるいはそうでもないのか…………

 そうだ、といるかはパッと尾ひれをしならせるように言い、『ブラザー複合機』のほうを見た。

 ――そろそろ、以前の主人のことについて何か、何でもいいわ、思い出したかしら?

 案内を受けることに必死になっていた『ブラザー複合機』はひびのわれたアスファルトにけつまづいてセメントでぎっちりと固められた電信柱に電子領域をかばいつつ激突した。いるかは失笑をかくすことなく、無様にたおれたそれを丁寧に抱えおこした。

 ――わたしたち「観察者」はつねにしっかりしないとだめよ。それが唯一の存在理由といっても言いすぎではないもの。ブラザーにそう自覚はないかもしれないけれど。

 

 物理的な衝撃は時に精神的なそれよりもものごとを大きく揺るがしてしまうことがある。おもに、痛い、などということがその結果として顕れてくるのが一般的であるが、それ、『ブラザー複合機』の場合はすこし違っていた。

 

「日付と時刻を設定してください・・・2010/01/01 00:00」

 

『ブラザー複合機』はセメントでぎちぎちに固められた電信柱の純粋な硬さに衝撃を受けたことにより、全記憶を保持したまま体内認識時空の果てのない旅に出、リセットされたようなリセットされていないような曖昧な状態まで電流のごとき一瞬間で一気に復帰した。

 いるかはそれを興味深そうな顔でよくのぞき込んだ。

 

「再起動します」