ドーナツ・クッション・クエスチョン(あるいはサバイバル)

 ドーナツ・クッションの上にかれこれ三日間ほど座り続けているが、一向に気持ちが固まる気配がない。ワンルーム・サバイバルである。ドーナツ・クッションに座ることで得られる効用は今このさいは脇に置いておくとして、いまはおれ自身の方向的気持ちに向けて集中力を高めるんだ。ドーナツ、円環、ぐるぐるぐる。尻と脚の付け根に負担がかかりつづけているから、思考は普段の倍増しで回転しているはずなのだ。不自由さは発明を生む、それっぽいではないか。しかし、いかんせん未だ考えることそれ自体が決定しない。考えたいこと、考えるべきことがなければ、何かを考えようにも考えようがない。ああもうこの前述の文字の並びを追うだけで考えることなど無意味であると天からの宣告、というか呆れのため息が聞こえてくるようである。そこで「ドーナツの穴は空白か、あるいは存在か」などとこじつけの仕方でどうとでもなる娯楽的思考に走りかけるが、ぎりぎりの線で踏みとどまる。おれは気持ちへと気持ちを集中させねばならんのだ。よいしょ、とドーナツ・クッション上でのポジショニングを調整していたところ、はたと思い至る。おれはいったい何をしているのだ、と。

 素速く座り姿勢からぐんと立ち上がり、尻と脚の付け根が奇妙な声で動作への抗議活動を繰り広げるなか、おれはキッチンへと向かい水道水を出して飲む。レバーを捻ったら水道水はだだだだと漏れつづける。バカみたいである。仲間である。水が苦い。なぜなら三日間水を飲んでいなかったからで、久々の水の味覚に口の中が水に対してよそよそしくなっているからだ。バカとバカのバカっぽい関係である。よそよそしいなんてものはバカだ。
 
 と、ここまで書き連ねてきたものは、いま僕が想像し、キーボードを叩くことで顕現した世界初の想像力と呼べるものである。繰り返す。世界初の想像力である。事実、僕はいまドーナツ・クッションを回転いすに敷いてそれに座っているし、机の上には汗をかいたペットボトルのミネラルウォーターがコースターに載っている。事実とフィクションに類似はつきものだからだ。あれ、そういえばなんで「買う」ことで得られる水はミネラルウォーターと呼ぶのだろう? そう、これも僕がたったいま初めて頭に浮かんだ疑問をここに書いたものである。それはそうと、この疑問に対する答えはここに書き記すことはできない。なぜなら、僕はその答えを知らないからである。単純な判断、消極的な諦め、この二つは僕のような人間にとって欠かすことのできない重要な選択なのである。事実との義務的ダンス。
 
 と、ここまで書き連ねてきたものは、いま私が想像し、キーボードを叩くことで顕現した世界初の想像力と呼べるものである・・・・・・待て、なんだか自分が分裂していくような感覚がまざまざと感じられているのだが。まず間違いなく、この「ディスプレイ相」においては自分が分裂しているように思う。だがドーナツ・クッションの座り心地に多少の不満をおぼえている自分は自分ひとりである。なんだなんだどうしたどうした。わからないのか? 何がわからないんだ?  私みたいな人間には理解という言葉の意味もろともだだだだである。
 
 こうなると、事実とフィクションの分かたれる境界というものは、このディスプレイ上にはないのではなかろうか? では、どこかの、何らかの相においては、おれと僕と私と自分の存在が区切られているのだろうか? すべて空白でした! なんてことは? ――これら疑問は事実か、それともフィクションか。
 とりあえず、尻の下のドーナツ・クッションに訊いてみよう。
 
 
 
 おーい。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャケット絵を眺めていたら、こんなことになってしまった。