すべて隣り合うものは狩りのために

 

 魔法みたいなものなのだと思う。
 放出、放出したいなア! モゾモゾ! このモゾモゾ!
 最初の男、《放出男》は、そう叫んだと言われている。

 

     *

 

 僕が知る限り、”ふり”の流行はそのころから始まった。
 人々は、多種多様な”ふり”を、様々な仕方でした。
 記号的な”ふり”から社会構造的な”ふり”まで、それらはみずから自由自在に形を変化させることで流行りの引き潮を生み、示し合わせたかのように一気にはじけることとなった。それは、休み時間のチャイムを合図に一斉に教室を駆け出していく無邪気な子供たちの動きを彷彿とさせる。
 多くの人々の”ふり”の、その潜在性の更新はもはやとどまるところを知らなかった。それは驚くべきスピードで起こった。
 けれど、われわれの生活や存在基盤に支障をきたすといったことは、今のところほとんどない。あくまでそれは流行であって、時勢のスタンダードからはみ出して起こることはないという流行の根本に沿っている。と、僕としてはそう考える。
 あるいは、ただ単にそれは修正力の問題なのかもしれない。
 このあいだ、キオスクで買い物途中に流し見た新聞記事の見出しに、『フィクションにおける放尿』と見えたような気がした。
 それも”ふり”のためなのだろうか?
 ただの見間違いだったかもしれないし、本当にそう書いてあったのだとしても、それはそれで些細なことでないかという気もする。それもこれも”ふり”なのだとしたら、どれもこれも逆説的に、やはりそうなのだろうとも思う。

 

    *

 

 僕は自販機にやって来ていた。いつもの自販機のすぐ横で、女の子がしゃがんでいる。すると唐突に、
「これ、嘘つくよ」
 と女の子はむきになった感じで言った。
 伊藤園の白いボディは、潔白といった佇まいで冷却装置を震わせていた。しょうがないから、僕は自分のぶんのレモンスカッシュと、少し悩んで女の子のぶんのレモンスカッシュも買う。ゴトリ、ゴトリ……
 どうしようか悩んだ末、こんばんは、と僕は女の子に言う。
 レモンスカッシュをわたそうとするも、女の子はいらないというふうに首を振る。夜もだいぶ遅いからかもしれない、歯磨きをちゃんとする子なのだろう。ちなみに僕もそうである。毎晩かかさないし、このレモンスカッシュを飲み干したあともする予定である。おそろしくねばついた口の中を、朝になってうじうじと後悔するのが嫌いなのだ。
 あいかわらず僕は女の子に見つめられている。
「あんた、《愛情の表現》でしょ」
 そうなのである。僕は《愛情の表現》なのである。すっかり忘れていたつもりでも、やはり僕は《愛情の表現》なのだ。
 そうして僕らは同棲を始めた。

 女の子は十六歳で、《それは夢だった》と呼ばれていたことがあるらしかった。
 僕は《愛情の表現》で、彼女は《それは夢だった》だから、彼女は僕のことをアイくんと呼び、僕は彼女のことをユメちゃんと呼ぼうとしたのだが、彼女はそれはイヤだということで、じゃあなんて呼べばいいの?《それは夢だった》じゃ呼びづらいよと笑いながら文句をつけると、志乃でいい、と言った。
 志乃というのが、彼女の名前だった。
 志乃は僕の妹になった。
 僕は僕の名前がしっくりときたことがなかったから、アイくんだった。
 いいじゃん、と志乃はうんうん肯いていた。

 志乃は《それは夢だった》と呼ばれることになった原因を教えてくれなかったけれど、どうして僕の妹になったのかは教えてくれた。
「お母さんとケンカしたの。お父さんが家のローンを払わなくて借金しててわたしが生まれる前から付き合ってたおばさんと毎週日曜日に会ってたことが、お母さんをちょっとおかしくしちゃった、というか、おかしくさせてきたんだ。かわいそうっちゃかわいそうだけど、それは本人にも責任があるでしょ? だからね、出てきたの」
「なんでお母さんとケンカしたの?」
「今ので全部だけど、わかんない?」
「わかんないけど、いいや」と僕は言った。
「妹になったのはね、わたしは妹的なの、いろいろと。そう思うの。本質的に妹的なの。だからね、お兄ちゃんかお姉ちゃんがいないと、自分が自分としてしっくりこないというか、あてはまりが悪いんだよね。そういうこと。わかった?」
 わからなかったし、それは半分嘘だった。
 志乃は、兄とのセックスでしか幸せになれない女の子だった。
 セックスの最中は、志乃は僕のことを《パパ》と呼んだ。
 僕は志乃に耳元で《パパ》とささやかれながら、童貞を失くした。
 僕は目を閉じている志乃にのっかられながら、黙って志乃の前髪の揺れを眺め、射精する。志乃の揺れにあわせて、長く、長く。それでも志乃の腰は上下の運動を止めず、僕は泥のぬかるみのようにおもく混濁した意識で、もうほんとうに耐えられないというところまで耐える。
「志乃、もう出ないよ!」
「うん、いつもありがとう、アイくん」
 たぶんセックスじゃなくてもいいのだろうけれど、志乃も僕もそれ以外の表現方法について、知識や教養をもたない。

 

     *

 

 僕がまだインターネットに頼りきりだったころ、隣りの二〇三号室のドアを二人組の黒スーツがボカボカ殴っていた。アパートを取り囲んでカメラを構えている色とりどりの腕章をした取材班を押し退け、ようやく部屋の前までたどりついたところだった。
 そういえば、額が水に濡れていてちょっと不機嫌だった。不機嫌だったのは何故かびちょびちょに濡れていたひときわ図体の大きい取材班のつける腕章に額を舐められたからではなく、その日の午後、とある新聞社が募集する仕事の面接に落ちたからだった。
 髪の長さが気に入らないようだった。
「死んだカラスにしか見えないね」
「でも、前髪はちゃんと切って」
「それでやっと、誤植だらけの株価面といったところだ。苦情が殺到してそこの電話線が切れる」
 担当者は窓の外を指差した。
 僕は床屋に入るのがこわかったから、担当者に頭を何度も下げてお願いした。

 僕「ン゛ン゛ッ、エー(魔法のステッキを振りかざして)、汝のあるべき姿に戻れ!」
 担当者「うわ~~~~~~(大きく仰け反ってみせ、すぐにキョトンと居直る)」

 担当者は、仕事の内容と報酬についてかんたんに説明してから、床屋に行きなね、と言った。僕は小さなコラムを担当することになった。
”ふり”の欠点のひとつは、恐怖に対してなす術がないところである。
 二〇三号室の彼は絶世の美青年だった。それでいて嫌味な感じもなく、僕は以前からお近づきになりたいと思っていたのだけれど、ルックスの良さというのはある種の威圧を振りまくもので、そういう機会はなかなか巡ってこなかった。
 二〇三号室はいつも物音ひとつしなくて不思議だ。
 黒スーツは二〇三号室のドアを叩き続ける。
 僕はおそるおそる声を掛ける。
「どうしたもこうしたもないぜ。もうネタはあがってんの。なあ! おとといの晩、この部屋電気消えてたんだよなあ⁉」
 黒スーツが振り返ると、取材班はいっせいに同意を表明した。
「彼、おとといの夜なら僕の部屋に居ましたよ」と、僕は二〇三号室を指差してでたらめを言った。
「証拠は」
「そんなものない」
 ぶん殴られたと分かり、脳味噌が飛び出すかのような衝撃が後からぐんときて、転落防止のアルミ柵に叩きつけられ硬く砂利塗れで汚い廊下にくずれ落ちた。瞬間的に身体の全部が酷い関節痛のようなこわばりを帯び、ざらざらとした床面を頬骨でこすると殴られた左耳の裏でほんとうの痛みが再出現した。おくれてじんわりと涙が出てくる。
「彼っつったな、お隣さんは男か?」
「そんなことも知らないで、クソ! 死ね!」
 死ねの言葉に、二人組は一瞬ひるんだかのように見える。
 僕はうめきながら、怒りと恥ずかしさと痛みが発作的で理不尽ないきおいで駆け上がってくるのを感じた。おれがやらなくちゃいけない、おれはこのクソみたいに野蛮で醜い男たちをどっかにやるんだと、名前も知らない二〇三号室の彼とそして自分自身のために思う。
 同時に、わかりやすい痛みだとも考える。なんてわかりやすいのだろうと、僕は考えている。柵越しに取材班の頭がひとかたまりに見え、それがどうにも異様で、カメラを向けられているのだとわかる。
「おとといふたりで何やってたのよ、お隣さん?」と、ドアも僕も殴っていない方の男がつまらなさそうに訊いてくる。
 二〇三号室はいつも物音ひとつしない。
「抱き合ってたんですよ。ふたりで。ハグですよハグ。おれの部屋も暗くなってたでしょ? え、知らない? みなさんもご存じない? あ、そう。まあそう、部屋が暗いからってそこに誰もいないなんて決めつけちゃうのはわからないな、そういう話じゃないのかもしれないけど。でもね、暗くたって、むしろ暗い方がやりやすいことだってあるんですよ。何、ってそれは、え、話してたの聞いてました?」
 黒スーツたちはしばらく黙っていた。
 つまらなそうにしていた方が階段を下りていった。
「これやるよ」と、殴り癖のあるらしい方の男が青黒いカードケースのようなものを僕の前に放って寄越した。拾ってみて中を開けると、どう傾けても偽物めいて光る金色のエンブレムの上に、POLICEの刻印が入っていた。

 その日を境にして、額に砂つぶをつけた僕がひざまずいて喋っている動画や字幕付きの画像がインターネットで拡散され出し、僕はどういうわけか《愛情の表現》としてまだ見ぬ数多くの人々に愛されるようになった。
 志乃もそのひとりだった。
 初めの数日こそ、それこそ迷子の飼い猫を探すようにしてそれにまつわる様々な動きを追ったけれど、やがてすべてにめげた。そして、インターネット自体を必要がなければ意識して見ないようになった。

 

     *

 

 僕が書くコラムは、毎週土曜日の夕刊に載っている。毎週末の締め切りもちゃんと守る。鳴かず飛ばずのくだらない枠だけれど、なんとかちゃんと続けることができている。もう半ばベテランといってもよさそうなものだが、誰がこんなもの読むのだろうとまではならないけれど、書いている僕にさえそれはどんな記事よりもひときわ小さくちぢこまっているように見える。
 少なくとも、僕の上司には読まれずに印刷されているらしいことは確かだ。

「子どものコツメカワウソが獣医の女性に抱えられて、キュイェーキュイェーと鳴いている動画がSNSを中心に話題となっているようだ。そのさまは、愛くるしい小さなケモノといった感じで、私としても微笑ましかった。キュイェーキュイェーと鳴いては獣医さんの指を軽く噛み、キュイェーキュイェーと鳴いてまた指を噛む。なるほど可愛らしいが、カワウソはどうしてそんなにも、じたばたと喚くほど鳴くのだろう。甘えたいのだろうか、それとも何ものかにひどく怯えているのだろうか? 悲しいのだろうか? はたまた笑いころげているのだろうか? おなかが空いているのだろうか? それはどれも正しく、またどれも正しくないのだろう、と私は思う。それはわれわれの認識が決めることなのだから。余談だが、動画の終盤、興の乗った獣医さん自らカワウソの歯と歯の狭い隙間に指を挿し入れキュイェーとなっていたのはどことなく強姦を喚起する。
 挿し入れるといえば、鍵について少し。みなさん、鍵はお掛けになるだろうか。何を当然と思われる向きは、ここから先は無視してもらって構わない。……というのも、ある思想を掲げる集団のあいだで、鍵は鍵穴に挿しっぱなしにしておくのが正しいのだという主張がおこっている。実際、少なからずそうした運動が街中で発生しているらしいのだ。もちろん、空き巣や盗難といった被害を受けやすくしているのだが、それはあくまで結果的事象であると見なし、通報等の訴えは行なわないことが常であるらしい。ひとくちに思想といってもその種類は多岐にわたっており、それらがおおむね哲学的であるというのは想像に難くないだろう。ひとつ、かろうじて理解がし易いものを挙げるとすれば、鍵というよりも鍵穴にずっと寄りそったもの、鍵穴こそが鍵を支えているのだ、という種の傾向である。しかしながら、なぜそうした信念が、鍵を挿しっぱなしにする、という行為につながるのか、私自身そのこたえに至ってはいない。また、目的と手段のいびつな反転、というのもあるが、私などには手に負えない観念である。さておき、鍵と鍵穴というのはふたつでひとつである、というのが私の見解であるとは述べておこうと思う。」

 僕のノートPCを勝手に使っている志乃は、知らぬ間にインターネットに接続している。スマホは家に置いてきてしまったらしい。この部屋にインターネットが通っているというのはずいぶんと久しぶりだった。
「いちばん安いプロバイダーにしたから!」
 とのことだった。よく契約できたね、と僕が驚いていると、
「だって妹だし。できて当然でしょ」と言った。
 いやでもさすがに、と言いかけてから、持っている三つすべての印鑑で試しても印鑑相違で返ってきてしまった電気料金の口座引落申請書が、先日志乃の印鑑で送ったところ通ってしまったことを思い出して、そういえばそうだったと思って何も言えなかった。僕はそういうことをもうやらなくなっていたので、うっかりしていたのだった。
 そういうのはもうやめたんだった。
 先週掲載されたコラムのカワウソの動画も、志乃が再生していたのを覗き見、それがSNSで話題になり数日遅れで各種メディアに載ったのである。志乃が言うには、
「このウソちゃん、間違いなく恋してるよ。わたしにはわかるね。これは恋をしてる人の、人?動物?生物?、まあそういうのの顔」
「まだちっちゃい子どもじゃん」
「え? アイくんそれどういう意味?」
 僕は弁明する。
「いや、子どもだし恋なんて、って思ったけど、全然そんなことないし、おれそういうつまらないこと反射的に口に出ちゃうし出した直後にあ、今思ってもないこと言ったなって思う。できれば、カワウソってどんなふうに恋をするの?とか獣医さんに恋しちゃう動物ってなんか共感できるなあとかが言いたかった」
「そうかもね」と志乃は言った。
「でもね、獣医さんに恋してるんじゃないよ」
「うん?」
「だれだと思う?」
 沈黙。
ハリネズミは夕暮れ時、たいていおなかを空かせています」と、志乃が言った。
 なにそれ、と助けられたような心地で僕は訊く。
 志乃は僕のノートPCをぱたんと閉じる。
 スーパーで夕飯の材料を買って帰りながら、底が抜けたような幸福感に襲われる。志乃、志乃が来てくれてよかったと、前を歩く志乃の小さな背中をたよりに、心の底から思う。もう今後いっさいこんな関係をもつような人間に出会えないだろうとさえ思う。
そして、こわくなる。彼女が僕の妹であるということが、何かにだまされているような、全部間違いであるように感じる。吹けば飛んでいってしまうような、むらの極端に少ないこの幸せが、僕はこわい。
側溝の蓋に沿って歩く志乃に、赤ワインを目いっぱい呷った後のような夕陽が当たり地面に影をつくっていた。つるんとした影。妹としての影。僕の足下からも細長い影がのびていて、電柱や車やカーブミラーや地面の窪みにも影がある。光がなければ影もないのなら、影は影自身のことをどのようにして受け止めているのだろう。志乃の影は志乃のものなんだろうか。僕の影は僕のものなんだろうか。
やがて僕の影も志乃の影も街路の巨大な影に吸い込まれ、消える。暗闇はときにずけずけと喋りかけてくるけれど、影は自分から喋ることがないからわからない。

 志乃は馬鹿みたいにたくさん食べる。
 まるで漫画みたいだ。
「漫画的三角食べ」
 と志乃は言って、野菜たっぷりつくねを口いっぱいにほおばる。

 歯磨きをして、志乃がマットレスに入ってくる。
 今日は愛し合わない日だった。
 僕が、二日つづけて射精すると、具合が悪くなってしまうからだ。
 ニトリで買った折りたためるマットレスは、もうだいぶくたびれていて、ふたりで並んで横になるだけでころりところがり落ちそうになる。僕らはひとつの枕に頭をのせて、かわりに慣性の法則について話す。
 ――わたしたち、このまま動こうとしなかったら、ずっと動けないままなのかな。
 ――ん?
 ――ずっとこのまま、こうやって寝そべってるの。どう?
 ――慣性ってそういうのだっけ。
 ――夢精ってしたことある?
 ――え? まあ、いっぱいある。尿道痛があるときなんか泣きながら起きてた。
 ――フフ、慣性の法則を守ってくださ~い。
 ――それは、どうにもならないよう。
 ――あ、ああ~、アイくん勃起しないでくださ~い。
 ――志乃の手が運動してるから。
 志乃は僕の硬くなったペニスを握ったまま、すやすやと寝息をたてている。なんだかサイドブレーキみたいだな、とよくわからないことを思う。この棒は、なかなか発進することのできない僕らのサイドブレーキなのだ……
 志乃の手を目の前にもってきて、拳の関節をひとつひとつ慎重に転がしていく。前歯が大きくて口が半開きになってしまう寝顔は、どことなく僕に似ているところがあった。僕はそっと唇を閉じてあげる。
 いつの間にか僕も眠っていた。

 

     *

 

 二〇三号室の美青年が僕の部屋を訪ねてきたとき、僕はコラム執筆の仕事を諦めようかと半ばやけになって悩んでいるところだった。
 僕は断片を見つけるのが苦手だった。
 断片というのはそこらじゅうに落っこちているはずなのだ。それらを見繕いひろい集めて、てきとうな文章にまとめ上げればいいはずなのだ。それができない。用意された断片をまあこれくらいでいいだろうという具合に調和させることはなんでもない。問題は、用意された断片には色つやが全くないということである。人々が求めるのはその色つやであり、光の姿を何か別のものに変えてしまうステンドグラスのような文章なのだ。
 僕は助けを求めて本棚に駆け寄った。もう久しく物置としてしか使っていない本棚だが、本は三冊あった。『統計学入門』『ポケット六法』『破瓜しに、と彼女は言う(ラブレス💔ノベルス)』。
 深いため息がこみ上げてくる。

 彼が言うには、警官もどきがドアを叩いている間、部屋にこもって時が過ぎるのを待っていたそうだ。結果的に男たちを追いはらうことになった僕に、彼はどこかきまり悪そうに礼を言った。
「ごめんなさい。どうしても出ちゃいけなかったんです」と彼は言った。
 驚くべきことに、彼は僕より三つも年上だった。
 とりあえず部屋にあげ話をしているうちに、彼を美青年という枠に収めて大切にしていたり、勝手に僕の部屋で抱き合っていたことにしていたり、という彼に対して抱いていたもろもろすべてが一度に消えたけれど、それはそれで悪い感じはしなかった。それが人を知るということであり、お互いの関係を進めていくために欠かせないステップであるような、そんな気がした。
 一目惚れではないけれど、どうしても親しくなりたい、親しくならなければならないと、その人を一目見ただけで確信することがある。それは性別の枠を越えて、ほとんど盲目的にやってくる。それは打算的でも、ましてや性欲のせいでもない。そういうときにだけ、人間の本能というものを僕は意識の表層につかまえる。
 次の日も彼は来た。僕が呼んだのだ。
 彼はなんというか、すこし変な人間だった。そしてよく喋った。長距離走をなんとか苦労してゴールしたばかりのような、感情と動作がちぐはぐな感じを常に隠すようにして話を切り出すのだった。
 彼は美容師をしていたことがあると言って、自分の部屋からシザーバッグを持ってきた。三人も並べば身動きがとれなくなってしまうほど狭いベランダに、コラムの参考になるようにと買い揃えたはいいもののそのまま放っていた新聞紙を広げて、彼はスツールに座った僕の長すぎる髪の毛に鋏を入れ始めた。
 僕らはすっかり親密だった。襟足が徐々に短くなっていくことで、それがわかった。
「汚い髪だな」と彼は言った。
 僕はおかしくてたまらず笑った。
 笑いごとじゃない、と言いつつ彼もまた笑って、僕の耳を間違って切り落としそうで僕は前かがみになって逃げた。
 彼はある男を殺すことに決めたと話してくれた。
「どうやって殺すの」
「殺し方なんてなんでもいいんだ。重要なのは、確実にそいつが死んだんだと納得できるようにすることだよ。きみならわかってくれそうだな。この、この感じをさ。もちろん殺しはりっぱな犯罪だし、殺されたほうはもちろん、殺したほうにも死と同質の何かがもたらされるんだろう。おれはこういう考え方が全然好きじゃない。むしろ大嫌いだよ。でも、でも?でもじゃない。だからこそ、やるのさ。やってみないとわからないってのもそうだけど、ああおれはやるんだな、とただそう思うわけ。どうやってとかどうしてとかいろいろ考えはしたけど、結局のところ、やるって決めたらそうするのがいいんだ」
「それってこの前のやつと関係あるの?」
 彼は僕の前髪をととのえながら、むッ、とゲップをした。

 僕は初めての原稿を担当者にメールし、それが一言一句違わず紙面に掲載されると、そのあっけなさに拍子抜けしてしまった。僕は純粋に僕が感じていることを書き起こし、その作業はいつしか定型化され、驚くほどスムーズになった。
 それは彼がいなくなってからも変わらないままだ。
 彼とは毎晩のように抱き合った。部屋を暗くするがマットレスに寝そべるこそはしないで、立ったままか床に座って胸と胸を重ねるのだった。行き場のない淋しさを紛らわすためでもなければ、人肌が恋しいというわけでもなく、それは僕と彼の確認作業のようなものだった。手を握ることもあれば、額と鼻先をくっつけることもあった。どちらかがそれを望めば、どちらかがそれに合わせて動きを変えた。ときどき彼は静かに泣いていて、そういうときには僕も悲しい気持ちになった。
 ある夜更け、彼は涙を流しながら、おれは”ふり”を止める、と力なく呟いた。
 僕は最初何を言っているのかわからなかった。なぜなら、”ふり”というのは、僕が個人的に流行をそういう言葉で呼んでいたからだった。
 僕がもしやと思って訊くと、
「うん、それだよ」と彼は短く言った。
「”ふり”は便利だ。都合がいいし、それに、しないよりかは楽にことを運ぶことができる、精神的にも、実際的にもそう。でもね、やっぱりそれはやっぱりいつわりなんだよ。少なくとも、おれにとってはいつわりなんだ。こうしてきみを抱きしめていると、わかっちゃうんだよ、どうしても。こうして、ただこうしているときにだけわかって、部屋に帰ってしまうととたんにわからなくなる、何もわからない自分だけに戻る。そういうのは、たまらなくつらい」
 わかるよ、と僕は言った。
「いや、わからない、何もわからないんだよ、わかるわけがない」
 僕はこうしているのが何よりの幸せだった。僕は勃起していないし、目の前に倚りかかることのできる人がいた。それは僕にとって、最もわかりやすい幸福の形だった。

 僕のコラムについてけっこうな数のクレームが来ているとのメールが新聞社の担当から届いた。夕方になってその確認のために都内の本社ビルに出向くと、傍目にもわかるくらいの慌ただしさで社員がたち働いていた。
《放出男》が殺されたのだった。
 担当者は僕を見て、なんだ、髪がちゃんとしてれば普通じゃないか、と肩を叩いてから、険しい顔をつくってクレームの委細を教えてくれた。
 凶器につかわれたのは、鋏だった。
 容疑者はその場で取り押さえされ、僕ははい、そこのところは、すいませんと頭を下げた。
 性的虐待?ネグレクト?え?性器ちょん切られて?互助団体?スペランツァの恋人?ネットは?まだ?だれ?おれ?
 僕は、知りません、とだけ言って階段を昇り、部屋の鍵を締めた。

 

     *

 

 だまされやすい性質というのは、夢のなかにあっても変わらないどころかさらに拍車がかかるようで、僕は眠っている最中に夢が夢だと気づけたためしがない。僕の夢はみずからの欲望のままに散らかし回り、僕に何ものでもない何かを残して去って行ってしまう。
 妹たちが性処理を担う住宅街に僕はいた。
 すべての家の玄関やポーチで全裸の妹が待っていて、それはすべて僕の妹なのだった。その僕というのは、僕ではなく、僕という要素を分けた僕の別な人格とでもいうべきもので、ほんとうの僕は数歩後ろからその僕を観察していた。
 彼は隠したがっていた。すべての家に妹がいることも、妹たちがみんな全裸で彼を待っていることも、それを僕に知られてしまうということも、その彼にはとてもつらいことのようだった。
 いつしか彼はひとりの妹と性行為を始めた。彼はもう隠し通すことができないという諦めを抱いたようだった。
 つづけて、別の妹と彼は交わった。
 それはいつまでもつづき、始まりも終わりもなかった。肉体としての卑猥さはなく、精神の昂揚だけが濃密なガスとなって彼の視界を蔽った。
 まだまだ妹たちは残っているはずだった。けれど、それは全く問題ではなかった。彼も妹たちも、夢の意識にしたがって増殖し、増えつづけ、複製されていた。

 コラムの原稿を書く時間になったから、志乃からノートPCを取り返そうとすると、「#時中時宗の身ぐるみを剥がそう」というハッシュタグがちらと見え、時中時宗というのは現首相の名前だった。
 どうやらその亜種として形を変えた、「#時中時宗のパンツを脱がそう」というハッシュタグもあるようで、志乃の隣りでスクロールを追っている限りでは、そちらの方が楽しげな投稿が多かった。
「しょうもないね」
 それには僕も同意して、でもそれらはすべてどこかのだれかのお気持ちの表明であり、言葉として示されたからにはそれなりの意思が介在しているのであり、それはそれで政治なのではないかと思ったところで、壁の向こうで二〇三号室のインターフォンが鳴った。
 その声には聞き覚えがあった。
 僕は激しい痺れにおびえた身体を無視して、あの偽物の警察手帳を部屋じゅう探した。物置と化した本棚、ニトリマットレスの裏、冷蔵庫の冷凍室まで開けたが、それはどこにも見当たらなかったし、それがあったらなんなのだ?
「逃げよう、あいつらが来た!」
 僕は志乃の腕を強引につかみ上げた。腕はあまりにもか細く、さらに持ち上げれば肘から先が外れてしまいそうなことにびっくりした。
「逃げる? え?」
「わかんないけど、あいつらが隣りに来てるんだよ! 黒スーツのふたりが!」
「黒スーツ? なにそれ」
「とにかく危ないやつらなんだ、ここはもう危険だから」
「それって」と志乃は僕の手を振りほどいて言った。「もしかして、アイくんがネットにあげてるやつのこと言ってる? 最近書いてないみたいだけど。もしかして、そういうあれ? なんか、ネタ出し? え、なんかすっごい汗だけどダイジョブ?」
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 それは、こう書き出されている。


 魔法みたいなものなのだと思う。
 放出、放出したいなア! モゾモゾ! このモゾモゾ!
 最初の男、《放出男》と呼ばれる男は、そう叫んだと言われている。