木の葉が揺れていた


 その時、A校舎二階の隅に位置する講義室の窓辺の席から外を、露天の喫煙所にたち込める見えない紫煙を見下ろしていた時、煙の昇っていく方を追っていくと宙で真新しい緑の樹葉が風に揺れていた。水泳プールみたいだと思った。それは、よく日に照ってたゆたう水面の動きに似た、知らぬうちにどこか遠くに行ってしまいそうな幻惑的なリズムの揺れだった。遠くに行くのはその揺れじたいであるかもしれないし、それを見ている自分自身であるかもしれない。揺れる木の葉の緑のなかには見分けを許す手がかりはどの箇所を見ても一切無く、というより箇所という部分はそもそも無く、見る者をはぐらかし、小さい揺れはしだいに樹々の群れと広がっていき、丸々と喫煙所を囲み、そして完全に覆った。

 緑。そう、青ではなくて緑。茶でもなくて緑だ。緑だけしか見えないのだ。それは少しだが異様な感じがした。どうしてかを詳しくは分析しきれない。緑というものは緑であって、昨日も、一昨日も、その前の日も、それらの葉は緑の集合体でありつづけてきたし、きっと明日とてにわかに変わりはしない。けれど、とぼくは思う。明日は木の幹も、枝も、もちろん葉脈からその色にいたるまで、変わっていかない部分は皆目ないのだ。目に見えないところですべては成長し、それが止まることはない。生きたり、死んだり、勢いがついたり、反対に弱まったりする。日の強さが増して、奥行きと傾きの陰翳が濃くなる。たった今、変化のダイナミズムは息を潜め、風が木の葉を煙のように撫ぜる。風はそのまま風として去る。ぼくは目を凝らし、揺れる緑の巨大なヴェールを疑わしげに眺める。

 意識をそらす。横長の喫煙所の中央に目線をもっていく。そこには、ぼくがいた。音が消えてしまう。得意げに笑って一本の真っ白な煙草の光を唇の中心から少しだけ横にずれたところで咥えて、ふと一度深刻な表情を見せたかと思うと、またすぐに頬の筋肉をくずして笑った。そのぼくはじゃれ合いながら仲間連中のすき間をかいくぐって抜け、三つ並んでいる真ん中の鈍色の灰落としにたどり着くと、とんとんと軽く持ち手をその上にかざして叩いた。

 あの男は驚くほどおれに似ている、とぼくは思った。見る角度によっては体に鋭い緊張が駆けるほどだった。防火ガラスの網目越しに、男の様子が見え隠れしてはその姿を追う。けれど、それじたいはぼくに何の気づきも、はたまた嫌悪すら引き起こすことはなかった。授業中に見るともなく見た窓の外の風景に、ぼくに瓜ふたつの男がいて、そいつは笑っている。屈託のないそぶりで煙草から吹き出す透明な紫煙を呼き散らしている。それだけだった。

 確かに見たわけではないけれど、太陽は今きっとおおよそ真上に輝いていた。そしてその白くぼやけた明るさに裏づけられたにぎやかさを、喫煙所の人々は、そしてそいつは享受し、纏っているようだった。ぼくは太陽の効用を間近に感じ、純粋に驚いた。

 先生の声が講義室の壁の枠を固定し、外との関係が遮断された。ぼくは授業を受けていたのだった。まもなく始まって四十分が過ぎようとしている。ぼくは腕時計の表面にこびりいついた汚れを入念に擦った。午過ぎの三限目は全体に眠気を、シャツに落ちた濃いしみのようにじんわり広げていく。それは時間の進みが遅まっているようにも感じられる。先生が唐突にどなり、数人の生徒に注意をあたえた。後ろの方にかたまっている体格のがっしりした者どもだと、振り返らないまでも気配でわかった。先生はマイクをスタンドに戻す暇もなく乱暴に置き、教壇を下りてかれらに近づいていく。くすくす笑いと無言の興味、そして冷たい無関心が室内をめぐって回る。ぼくはそのどれにも属すことができないと感じる。突如空っぽになった黒板の前の空間はあまりに広く、目のやりばに何となく困っていると、白地に厳つい字体の赤の「禁煙」の貼り紙が急な速度で目に飛び込んできた。ぼくは不思議な気持ちでそれをじっと見た。四隅がややめくれたように見え、黒ずんでいる。本来、黒板や投射用スクリーンに隠れて目立たないはずが、その脇で歴史的な趣でもって異常なまでに主張していた。出て行け。ほかの人の迷惑だろうが。ここに居る意味があるか? しん、と講義室は静まり返る。「禁煙」を見るのに飽きると、ぼくはさっきと同じように、それが癖であるかのような仕種でゆるやかに窓の外を覗いた。

 その瞬間、ぼくらのあいだに、目が合ったかのような奇妙な間が二人をむすぶ直線上で痺れるように生じた。再び屋内と野外の、ぼくと男との境界が曖昧になる。ざわめきを取り戻していく部屋が、しだいにぼくの中枢から遠のいて行く。ぼくらは目が合ったわけではなかった。目があったようなぴりっとした感覚をぼくが感じたというだけだ。けれど、野外で地上の喫煙所と二階の講義室、そこには数メートルの高低差と数十メートルの距離があったが、ぼくらは同じ重力を受け、同じ分だけ自然の影響を被っているのだということがはっきりしていた。

 ぼくらはつながってしまった。ぼくの四囲から一気に音が消えていく。男は全く違う方向を向いていて、ベンチに座り込み、何なら連れとしゃべっている。だけど、おれとあいつはつながってしまったんだ。おれは煙草は吸わないが、あいつは煙草を吸っている、それだけだ。耳の天辺に髪先がかさかさとかかっている、普段は気にも留めない感覚が、どうも神経質な細かいふるえになり、気になって仕方がない。違い、とぼくは思った。それがおれとあいつの違いだ、決定的に違っているんだ。

 ぼくは心を決め、講義室を立ち去った。この場所には、ぼくのものである何か、ぼくを補強するためのものは何ひとつ無いようだった。だから、ぼくは講義室を出た。あの男を追う必要があるのだ。ぼくはぼくを追わなくてはならない。そして―― ぼくは、重たい扉を開き、天井の高い廊下にもう踏み出していた。

 踊り場を無視するように一段とばしで階段を駆け下りた。ひとりの女子生徒と肩でぶつかりそうになったが、うやむやに短く謝るだけで突っ切った。四十段かそこらをいとも容易く過ぎて行き、地上階はすぐそこだった。そして、まるでぼくの背中を追いかけるようにして、女子生徒にちゃんと謝らなかったことの後悔がぴったりついてきた。ぼくは怯まずに進んだ。外から射し込む光を辿るようにして出入り口のゆるやかなスロープを早足で出ようとした時、ぼくは急に我に返った。おれはこれからいったい何をしようというのだろう? どうして授業を飛び出したりしたんだ、そんなこと今までしたことがないのに? 女の子に激しくぶつかりそうになってまでする意味のあることを、これからしようというのか。だが、その時点でぼくはもう石敷きの砂埃の上に立っていた。陽が心地よく照っていた。何だか、誰かの意思によって立たされているみたいだった。

 ぼくは研究室棟である赤茶けた建物の陰に身をひそめて位置を取り、ぼくによく似た男の様子を観察し始めた。内心で動揺しつつも、確固たる使命感にかき立てられてもいた。何かがわかるかもしれない、捜索の熱。相変わらず、男は喫煙所中央の鉄製のベンチに腰掛けていて、殆んど間を置かずに数種類の笑い方をした。口をすぼめてみせたり、眉根を寄せていかにも可笑しそうな感じになったり、片ほうの口角をニッと上げたりした。自然な具合に笑むのは思った以上に難しい。だがその男は、絶えず自然に笑った。あたかもポーズを決めた人物が写真のなかから出てきたようでさえあった。ぼくは密かに感情がみだされ、一滴の汗を体の内に看取った。

 三、四人でかたまっていたはずだが、今は見えるかぎり男と、もうひとりの女がいるだけになっていた。ふたりは隣り合って座っていた。向かって左に男が、そして右には女が脚を組んで前のめりにやや傾いていた。女はいかにも都会の子供といった外見で、白すぎる筋張ったふくらはぎの筋肉と血管のふくらみはぼくを落ち着かなくさせた。話す声までは耳に入ってこなかった。ぼくはかれらを見るとともに、木の葉の揺れるのを見上げていた。何かが違うという気が、つき纏って離れていかない。陽に面した側面にうつる斜めの影がぼくを追跡行為へと促していく。

 さらに少し近づいてみようと、レンガの壁に沿って歩を進める。足裏のアスファルトが細かい破片になってバラバラとくずれるのがわかる。ぼくはちょうど良いところで止まり、また顔を上げる。男は、ぼくが最初に受けた印象ほどぼくに似てはいなかった。僅かな失望感が形のない小さな泡のように、ぐっと湧きあがってきた。顔かたち、服装、全体的な雰囲気、落とす影。いずれにしても確かに似通った特徴は少しずつ見受けられた。かといって、それはそれ、という素っ気なさが軟らかい微温湯のごとくぼくの頭を支配した。何よりも、男の利き手はぼくとは異なって左手であるようだった。ぼくはえらく気を落とした。が、またこれも、それはそれ、だと肯定的に諦めることにして、そのことを意図的に区別して考えた。

 森のなかの喫煙所にかれらはふたりきりで座り、時々煙草に火を点け、ふかした。かれらは自覚的になって、身を寄せ合い、少なからずお互いの体に手を差し伸べあった。それは洗練された流動的動作によってなされ、ぼくはその行為の意味の半分も汲み取ることができなかった。しゃれた言葉でささいな攻撃をし合っているような、ある種のいやらしさが、都会的な行儀の悪さが、そこにはあった。ぼくはそれにあこがれているのでもなく、あるいは唾棄すべきと軽蔑の情をたぎらせるでもない。感情的に孤立する自分をぼくは膜の内側から外に見た。手持ちの言葉とニュアンスで対抗するには、ぼくはあまりに未熟すぎるのだ。女の漂白されたふくらはぎがぴんと伸張し、男は目を細めて煙草をふかしつづけていた。あたりはひっそりとして風が木々を揺らし、ぼくら三人の関係を不器用に眺めて去った。空はぼくらに光をあたえ、ぼくらの想いをどこか遠くへとつり上げていくように白かった。

 男は勢いよく立ち上がり、女に手を振って別れた。そして、その足で正門の方へと向かっていくのは殆んど確定的に見えた。ぼくは決断に迫られた。このまま追うか、それとも・・・・・・ リュックサックの紐が肩に重くのしかかっていて、それはぼくに止めておくように言っていた。そしてそれはぼく自身の内なる囁きでもあるのだ。けれど、その声はぼくの体内のどの部分にも跳ね返ったり響いたりしなかった。踊らなかった。そのための器を、頑丈で立派な壁をもつ部屋を、選び取れるほど豊かな自己をもっていないことにぼくは気づかされていた。

 ぼくは男の後につづいて歩き出した。

 正門棟の下に掘り抜かれた階段を下り、男は断定した足どりで信号が青に切り変わったばかりの横断歩道を渡った。後を追い、ぼくも同じ横断歩道をぎりぎりで歩き抜けた。そこから先はたえず人の往来が多い通りと脇道がつづいたが、べつだん大した支障もなく男の背中を一定距離にとらえて順調に進んだ。午後の三時を迎えようかという春先の気候は、広さと狭さをあやうい均衡で併せもっていて何とはなく遠近感に欠けた。ぼくと男はしばらく速度をそろえて白昼の都心を行進した。

 街路樹や高い庭木のいっぽんも見当たらない道を歩くことは、ぼくを遠心性にみちびくとともに、まったく寄る辺のない気持ちにさせた。木々のかわりには、灰赤色の道路灯や大きさほど目立たない電信柱、そして不透明なガラスが幾つも規則立って嵌め込まれた鋼鉄製のビルとそれらに附属した縦長の仰々しい店舗看板が並んだ。濃くも薄くもない日光はそれらの陰へと落ち窪み、湿りけのなかで生育している僅かながらの元気のない草木にまぶされる。青臭くみずみずしい自然の臭いは複雑に混ぜられた人工的な臭いに置き換わり、鳥の啼き声は皆無だ。

 男は駅前の広い遊歩道をビルの向こうに折れた。行く先にはおそろしい数の鳩が群がる歩行者広場があって、それが大学の最寄り駅なのだ。男を追って、ぼくも足早につづく。男は背丈ほどの植木が囲んでいる隅のスペースに姿を消す。そこは広場に設えられた喫煙所で、スーツ姿の男たちがおおぜい利きの悪い掃除機に吸い込まれるようにして入り、しばらく経つと吐き出される。並ぶ植木はぶ厚く、徹底して外部とを仕切っているため、内の様子を窺いのぞくことが決してできないようになっている。男は迷うことなくそこに入っていった。

 広場にひとり残されたぼくは軽い焦りを感じた。人々はたえず立ち止まって身を隠せるようなすき間はざっと見当たらず、人の歩く流れはいっこうに止む気配がない。とても誰かを待ったりひそかに観察したりするためにじっとしていることはできそうにない。そもそも、男から身を隠す必要があるのだろうか。堂々としていればいいじゃないか。ぼくらはお互いを知り合っているわけではないし、もしかりにぼくが男の目前を歩いたとして、何かがあるわけでもない。でも、それではだめなんだ、とぼくは思う。胸の上側に違和感を具えた熾火の熱が揺れた。それでは目的が致命的に違ってしまう。

 ぼくはできるかぎり歩く速度を落とし、対策を考えようと頭をめぐらせた。そこで無数の鳩の群れが視界に飛び込んできて、ぼくにひとつの案をもたらした。ぼくは鳩たちのなかにゆっくりと踏み入っていく。鳩たちは逃げるそぶりをみせることなく、ぼくという闖入者を数十の目をいそがしく動かし見つめた。人々の流れは、この鳥たちの連帯の中州を避けるようにまたいで通り過ぎて行く。つかの間の退避所、鳩たちの中州の真ん中にぼくは立ち尽くし、くすんだ植木の奥の喫煙所を視界に収める。

 二羽の鳩、細い羽毛が灰色のと頸のまわりが赤褐色のが近づいてきて、ぼくの靴をなめるように動いた。制服に身をつつんだ小学生の集団が人の流れにのってきて、群れの周縁の数羽を脅かし、鳩は駅舎の屋根上にいそいで飛び移った。ぼくはポケットからスマートフォンを取り出し、アルバイト先に連絡を入れようと思った。今日は出られそうにない、ぼくにはやるべきことがある。その旨を伝えるための適切な言葉の細部をざっと頭のなかで整理し、ダイヤルする。

 はい、交換担当の――です。

 こもり気味だがある程度聞き取りやすい声の女性が出た。ぼくは名乗り、所属している部門のマネージャーに取り次いでくれるよう言った。

 少々お待ち下さい、ただいまお繋ぎ致します。

 電話口でプツンと音が切れ、保留の音楽に切り替わる。耳にあてがっていたスマートフォンを音が聞こえてくるぐらいまで離した。普段から勤務姿勢も悪くなく、むしろ良いくらいで、ウイルス性の高熱を伴った病気でしか欠勤したこともない。これまでのそういった経緯から、きっと今日の用件も認めてくれるだろう、とぼくは少なからず余裕をもって植木を眺めた。一羽、また一羽と鳩が羽ばたき、どこか遠くの空へ飛び立って行った。おそらく塒へとかえっていくのだろう。かれらにも決まった帰る場所があることに、ぼくは胸を打たれるような感じがした。

 ・・・・・・お待たせ致しました。お繋ぎ致します。それではごゆっくりとお話下さい。

 女性の声が遠のいて回線が変わり、二秒ほど不自然な沈黙があった後、ツーと音が入っていった。

 はい、加工食品の――です、と高めの男の声。

 あ、こんにちは、とぼくは言う。

 おう、どうした? とマネージャーが言った。うしろで紙をめくる気配が止まった。

 あのすいません、今日お休みをいただきたいんですが。

 流れ行く人々のスピードが、音と視野をぎゅっと絞るように遅くなったかと思い、それは不自然な間がぼくとマネージャーの会話に楔を打ったからだと理解が追いついた。

 風邪引いちゃったのか、とマネージャーが言った。

 いえ、そうではなくて、少し用事ができてしまって。

 鳩の最後の一羽が駅舎を越えた向こうに飛び立って行った。ぼくはひとり、広場の端のほうに残されてしまっていた。

 そうか、マネージャーは明らかに苛立って言った。どうしても出れない? 今日はどうしても出れないのか、遅くから、七時くらいになってもいいから、それからなら出れるのか、そういう形でもいいんだけど。

 出れません、とぼくは言った。

 喉が急速に渇いていって、口内に溜まった唾液を一気にのみ下す音が響いた。電話越しに聞こえてしまっただろうか。欠勤の連絡すら満足にできない自分の卑小さにうちひしがれる。

 どうしても?

 はい、絶対に外せなくて。すいません。

 男が喫煙所から出てくるのが見えた。ぼくは反射的に通話を切った。追いそびれるわけにはいかない。ここまで来た以上、曖昧に引き返すことがあってはならない。スマートフォンをズボンのポケットに戻し、駅構内の通路に向かって男の後を追う。

 男は改札を抜けると下り方面行きのホームへと階段を軽快に下りていった。夕方の通勤時間帯にほどなく差しかかろうとしていて、混雑の前ぶれを思わせる疎らな慌ただしさが人とともに漂っていた。そんななかぼくは慣れた動きで男を追い、後から階段を下りていく。

 気づけば、追い始めたころのぎこちなさに比べると、目に見えてぼくと男の距離は縮まって、より近い間隔を保って歩いていた。そして、もう男がぼくに殆んど似ていないことにもぼくは気がついていた。歩くときに胸を張る姿勢も、周囲を見渡すさいに傾ける首や顎の角度も、細かいところを検討しなくとも何ひとつぼくに似通ったところはなかったのだ。ただ、ぼくはあの第一印象、あれはおれだ、という強烈な第一印象に身も手も引かれてここまで来たのだ。あの鮮烈な感覚は男からぼくに向けて発せられたものなのか、あるいはぼくがぼくの内で独自に発見したものなのか、今となってはどちらでも構わない。ぼくはぼくを追っている。そのことがぼくを熱病のような興奮に駆られたちぐはぐな執着にし向けていた。

 列車が風を切ってせわしく到着する。ぼくは二つドアを離して乗車し、等間隔に整列するつり革の合間から男の挙動を注視する。ふたたび走り出し、サッシの細い影が床を移動し明滅する電車のなかで男は窓の外をひたすらに眺めていた。あたかもそこに自分を確定させる何かが映し出されているかのような、それを理由に何かを諦めているような、そんな読みとりがたい目つきをしていた。ぼくも同じ方の窓を覗いた。重機や大型の資材が点在する開発途上の更地が一面に広がっていた。黄土色の巨大な空間の向こうの先には高層ビルがどこまでも横並びに建っていて、眼下の更地を見下ろしていた。男はたぶんそのどちらかを、電車の速度に影響されて流れていくことのないそのどちらかを見つめていた。

 過ぎた駅の数が増えつづけ、覚えるのを止めてしまってからも男はなかなか降りず、ぼくはだんだんと不安になってきた。まわりの景色は見慣れないどこか異国然とした色彩をおび、何も一切考えることなく眺めるようなことはできず、そのためには自身の経験を断片的に組みあわせて全体的に補完する必要があった。男は変わらず窓の外に意識を飛ばしていた。

 突然隣の車両から中年とおぼしき男の嗄れた怒鳴り声が響いてきて、ぼくの周囲がいっせいにその方を見たが、ぼくは窓の外を見つづけた。男もそうしていた。

 夕暮れの冷たくなりはじめた空気のなか、電車はゆるやかに減速していった。線路にそって建物や頭上の電線が収束していき、数多くあるうちのひとつの駅の到来をしらせた。ちょうどその時、ポケットの底でぼくのスマートフォンの着信音がうるさく鳴り出した。さっとぼくにおびただしい数の視線があつまり、それらはさまざまな意見をはらんで大きなかたまりとなり、音を立てた。

 ぼくは瞬時に男の方を見、息を呑んだ。男がぼくのことを刺すような鋭さで見ていた。すべてわかっている、とその両目は雄弁に言っていた。おまえが追ってきているのは知っているし、だからといっておまえが何かを得ることはけっしてない。おまえは何もおれから得られないんだ。

 電車が完全に停止し、すべてのドアが同時に開いた。男はぼくから視線を外すとそのまま目の前のドアをくぐり出た。迷うことなく左へ向かい、その先には出口へとつづく上り階段があった。ぼくは鳴り止まないスマートフォンを手探りして取り出し、慌てて近くのドアから飛び出した。男の背中がみるみる遠のいて行ってしまう。ぼくは通話マークをタッチして、早足で追う。

 もしもし、とマネージャーの声がした。さっき急に切っただろ。

 すいません、ぼくは投げやりに言った。急いで男の後を追う。ホーム上は待つ人と降りる人とでとても混みあっていた。そういうつもりではなかったんですけど。

 人混みの向こうに男の姿を見失いそうになりながら、ぼくは必死にすき間を縫って追いかけた。

 あのさ、別に休むのがダメだってわけじゃないんだよ、ただ今はどうしても人手が必要だって話はこの前したよなあ。

 はい、聞きました。

 一瞬男が視界から消える。階段の手前の人の群れのなかに紛れ込んでしまったみたいだった。

 急にふたり辞めちまってにっちもさっちも行かなくなってる。店内の改装作業があるおかげでほかのことまで手がつけられてないし、あとこれも話したよな、明日お偉いさんが来たり、なおかつ監査が入ったりで今日やっとかないとまずいことが積上がってんだ。おまえはもうここも長くて作業の効率もいいし、今日ばかりは休まれると困るっていうか終わりなんだよ。何となくわかるだろ? この状況。

 階段の半ばあたりに上っていく男がちらと見える。急いで駆け寄ろうとするも次から次へと人が壁のようにぼくの前に立ち塞がる。

 ほんとはこれから用事なんてないんだろ? あのさ、まあ普段よく出てもらってるからあんまり責められたものじゃないんだけどさ、当日のさらに直前になって急に、休みます、って言われてもこっちとしては納得できないわけだ。わかるよな。だから今日だけってわけじゃないけど、今日に限ってはおまえに出てもらわないと正直どうしようもない。おまえが必要ってわけだ。わかるよな?

 階段まではまだまだ遠く、その距離は今のぼくにとっては無限だった。上りの階段は、どこまでも遠かった。

 で、くるの、こないの?

 階段の天辺で一瞬あの男がこちらを振り返ったような気がした。それはあの男であるかもしれないし、まったくの別人かもしれない。誰も振り向いていないのかもしれない。そのぼくの影は、ゆらゆらと揺れる人の波にのまれ、やがて見えなくなった。