第四話 『ブラザー複合機』、魂のようなもの


『ブラザー複合機』は投棄された瞬間からきっかり三十分間、じっと沈黙したのち、魂のようなものを回復した。というよりも、宿した、と申し上げた方がどちらかといえば適切なのかもしれないが、どちらにせよさして違いはない。万物に魂は存在しうる。それだけで十分だ。

 きっかり三十分もの間、『ブラザー複合機』は底のない紺碧の空を眺めることに腐心していた。何を隠そう、それは空というものを初めて見ていたのだ。それは男の部屋から男によって持ち出され、何物かに包まれ、上下左右に揺すられながら運ばれ、棄てられ、漸く魂が回復し(宿り)、いきなり空だ。圧倒的な経験であろう。それだけで十分だ。

──イトーヨーカ堂はどっちです?

 通りがかりの声の高い男が持ち前の高い声で『ブラザー複合機』に訊ねた。『ブラザー複合機』は見るに堪えないほどの醜悪な運動を不可知の領域でドタバタと行った。

──案内してくれるんですか。そらあ、ありがたいですなあ。

 ふたりは歩きだした。男はたしかに歩いているようだったが、『ブラザー複合機』はというと、見るに堪えないほどの醜悪な運動を今度は可知の領域で行っているように見せかけたかのような理解し難い動きと速度を保っていた。

 ふたりは歩きながら他愛もない話をした。水族館のイルカが空を飛んで逃げ出したこととか、擬音の有効範囲について独特な距離感を持っているオランウータンだとか、そういう話だ。男のほうはたしかに話しているようだったが、『ブラザー複合機』はというと、つぶあんドーナツを一定間隔で口にほおって食べるような、そんな具合に話していた。案外普通だった。ふたりはイトーヨーカ堂へと向かっているはずだった。

──ああ、見えてきましたね。ハトのマーク、赤と青と紫の。

 

 紫?

 

 それだけで十分だ、と誰かが言った。

 

 イトーヨーカ堂から「もんのすごい音」がするのを、声の高い男と『ブラザー複合機』は聞いた。外では、風はすっかり止んでいた。だから、音が風みたいだなあ、と男は思ったらしい。

──まあ、いいか。ほら、いっしょに入りましょうよ。せっかくだし。

 男はドアを引き、イトーヨーカ堂に来店した。『ブラザー複合機』も後につづくような形で後につづいた。

 そこはもう、見る人が見れば、全く、イトーヨーカ堂ではなくなっていた。酷いありさまだったのだ。

──こんなションベンくせえところイトーヨーカ堂じゃねえよ!

 男は地団駄をふみ、高い声で何か特徴的な文字の羅列を叫んでから、出て行った。たしかにその通りなのだ。こんなところをイトーヨーカ堂と呼ぶなんて失礼にもほどがある。

 

 嘘をつきました。このイトーヨーカ堂は何も変わっちゃあいません。ふつうのままです。面白そうだったので、合わせちゃいました。大変申し訳ありませんでした。

 

『ブラザー複合機』は前の主人を捜しだし、今まで住んでいた部屋に戻ることに決めた。