第十一話 長く静かなカーブを回る


 懸命に両腕を振り地面を蹴って全力疾走していた『さかなクン』であったが、気持ちこころが落ち着いてきたように思ったので一旦そこに止まって後ろを振り返って見た。白く磨かれた石の地面から草いきれのような具合に霧が立ちのぼってきていて視界はよくはなかった。けれどその厄介なふくらみをもったモザイクの向こうにかすかだが人影が見え、その影はどうやらあの赤青紫の鳩のもののようだ。そいつは片手を掲げ、ゆるやかに弧を描くようにして左右に揺らしていた。立ちこめる霧のせいでその顔も表情も立像も存在も何ひとつ確かではなかったが、そいつが片腕を振っている、その意味合いを『さかなクン』は身震いする心持で見ていた。

 再度振り向いて視線を前進すべき方向へ戻すと同じく宿命的な霧が立ちふさがっていて、行く先の不明瞭な長く不吉なカーブが伸びていた。そんなことはないはずなのだが、カーブは円を描くような、まるで何処にも行き着くことがかなわないような、無慈悲な角度を伴っているように感じられたけれど、結局そんなことはなくてただ先が十メートルとそのくらいまでしかよく確認できないというだけだった。異様な巨大な静寂がのっぺりとのさばっていた。

 おいおい、このカーブは何処につづいてるってんだ? ・・・・・・いや、そういうことじゃあねえなこれは。おれはここを進む。慎重に、丁寧に、霧をかきわけて。そしてここを無事に抜けることができれば、おれはたしかに救われる。それしかねえ。そう信じるしかねえだろ?

 呼吸を整え、張ったふくらはぎを丹念にほぐしてから『さかなクン』は右足から歩を静かに踏み出していった。

 不思議なことだが、背を屈め目を凝らして着々と歩いているうちに『さかなクン』はどちらに、つまりは右・左のどちらにカーブしているのかわからなくなってしまった。右、と思えばそれは右のような気がするし、反対に左、と思えばそれは左のような気もしてくるのだ。霧が濃い、と思えば思うほどかれのあたりを粘着的に被っている霧がより濃くなっていくようにも思われた。

さかなクン』は気づき始めていた。この長く、静まりかえったカーブの本質、そこにある乗り越えるべき壁のごとき段階的な段差。

 言葉が支配しているのだ。言葉という魔法がこの霧のようにおれの周囲、そして皮膚から内臓までをもれなく取り巻いている。それは致命的に、かれの熱い芯の部分の感覚に、熟れつくした果実が溶けていくようにじくじくと信号を送る。おれはここを、よく考え、越えなくてはならない。そのためにカーブは長く伸び、思考の土地としての静けさが意思をもって拡がっているのだ。

 

 イトーヨーカ堂、と『さかなクン』は呟いた。

 マグナ=カルタ(大憲章)、と『さかなクン』はこぼした。

 コカ・コーラ、と『さかなクン』は呻いた。

 きくらげ、と『さかなクン』は涙を堪えた。

 

 おれは言葉に取り憑かれている、と『さかなクン』は指の腹ににじみ出た汗を両手でこすりあわせて考えた。言葉は魔法に変わり、実体をもつおれをかたく縛めている。この魔法を解かなければこのカーブは永遠に永久におれについて回ってきておれは死ぬまで信仰をもっていない巡礼というようなあいまいな存在としてここを歩きつづけることになるだろう。

さかなクン』は死んだ目の被り物を深く被りなおして頬を湿った掌で撫でつけながら考え始めた。

 

 きくらげよ、お前はいったい何モンだ?