名前はきっとスマイリー


 季節が巡り始め、一巡りして、また巡ろうとするまでの話。春から始まり、冬を眺め、また春へ。人はそれに区切りをつけ、一年としている。だけど僕は何年か前のある一年を、一年とはどうしても把えることができずにいる。なぜなら僕の言うその一年のうち、ある一日しか、その一年を十分に象っていないからだ。その一日は一年として変換可能で、その逆も然りということになる。
 また、その一日の次の日、つまりその日にとっての翌日が、その一日とは方向性がうって変わった別の一日になっている、とは必ずしも言えない、とだけは付け加えておく。当然と言えばそれまでだが、当然なことにわざわざ言及するということも場合によっては意味を成してくる。というのも、すでに僕の頭の裡では一日だったり一年だったりが縦横無尽にこんがらがってしまっているのだ。
 とにかく。その一年、もとい一日は、スマイリーとの出会いの連続と、スマイリーと僕の確かな分離だった。

 冬の終わり、あるいは春の訪れ。僕はある人たちから古い炊飯器を譲り受けたので、机の上にあった文房具や電子機器やコードや紙類をひとつところにかき集めて、取りあえず釜に入れて炊飯ボタンを押した。何というか、そういう気分だったのだ。つまり、炊飯器をただの炊飯器として見ることができないというか、見たくなかったのだ。炊飯器はここにあって、ぽっかりと口をひらいていて、僕はここにいる。状況はすでにほとんど揃っていたし、これ以上の事実は僕にとって特段必要なかった。だから僕は炊飯器に身の回りの小物をつめこんで、スイッチを入れた。そうするしかなかったのだ。作動の効果音を聞いた瞬間、ある部分で、何かが決定的に間違っていることはぼんやりと頭の片隅をよぎりはしたものの、その棚引く靄のなかにある感覚を具現する気力はもとより、その欲望さえもほとんどなかった。
 おそらくスマイリーが、僕に少なからず影響を与えているのだろう。スマイリーのことを想う時、僕は必ず白い気球とそれを運ぶ白い渡り鳥の声、ひつじ雲、ポップコーンを思い浮かべる。今でもそれは変わらない。ひとつひとつ順ぐりに追っていくのではなく、それら一連の状景がゆるやかに出たり消えたりを繰り返す。青い空、無限の天蓋がはるか頭上を覆い、澄み透る空気がぱりっと調和を生み出す。その光景はいつも決まって穏やかな哀しみの気配に満ちている。
 ひとつ断っておくと、当時の僕は「スマイリー」という言葉自体全く意識することはなかった。それは今もほとんど変わらない。知っていたかどうか、という問いかけに判然とした返答をすることもできない。でも僕は間違いなく「スマイリー」を、あらゆるもののなかに認めていたことは確かだった。

 僕は一時期、魔法少女たちのアトリエに間借りをしていたことがある。当の話の一日、あるいは一年も僕はその奇妙なアトリエに住んでいた。木造の平屋で、ところどころおぼつかない補修が施されていた。裏庭の低いブリキの柵をはさんだ向こう側には一本の線路があり、六分おきに小さな電車が上り下りと交互に走り抜けた。夜遅く、ほとんど乗客のない電車が走るさまを、よく縁側から眺めた。親近感に似た、得体の知れない奇妙な感覚だった。このアトリエは奇妙のオンパレードで、家賃も必要なければ、アトリエらしき何かが行われている様子もまるでなかった。アトリエとはいったい何なのだ?
 魔法少女は全部で三人いて、それぞれピンクのスター、イエローのサンダー、スカイブルーのウィンドという名前だった。色はたんにイメージカラーというものらしく、名前とは関係ないとのことだった。彼女たちによると、イメージカラーが決まっていて窮屈、というよりは色が決まっているのはわかりやすいし生き易い、とのことだった。魔法少女にも生き易さの程度があるということに奇妙な感興がわいたのを覚えている。そういうものなのだ。
 その日の朝、めずらしく三人は僕よりも早く起きて、朝ご飯の支度をしていた。いや、たぶんそんなことは初めてだっただろう。それまでは僕が先に起きて、僕がかかさず朝ご飯を四人分作っていたのだから。
「おはよう!」と三人の魔法少女が口々に言ってきた。共同スペースには、特に魔法の気配は感じられなかった。ごくふつうの、朝の台所の風景のように見えた。
 僕はあっけにとられて何を見るともなく見て、朝ご飯のいい匂いを鼻から取り入れていたが、しばらくして、おはよう、と言った。僕らは四人揃って食堂にひとつだけあるテーブルに向かった。こんなことも初めてだった。場の空気にしたがって、僕が、いただきます、と言うとつづいて三人が口々に「いただきます!」と言った。温かいご飯はとても美味しく、美味しい、と呟くと三人の魔法少女は満足そうに大根と人参とごぼうの煮付けをぱくついた。
「そういえばさ」とスターが僕に言った。「名前、なんていうの?」
「名前? 僕の名前のこと?」
「そう」とスターは僕の両目を見て言った。驚くことに、スターにはピンクの色がどこにも見当たらなかった。
「たしかにね。気にしたこともなかったな」とサンダーが何とはなしに言った。「そうだね、知っておきたいかも」
 そう言われると、僕には名前というものが希薄で、というよりほとんどないも同然だった。現に思い出そうにも何が適切な名前なのか全く思いもよらないのだ。でも僕はひとつだけ、これかもしれないな、という名前を返事として言った。
 三人は口をポカンと開けたかと思うと、そのままうれしいような切ないような、とにかく奇妙な表情をした。
「なんだか、イメージとだいぶ違うね」とウィンドがまず開いた口を閉じ、もう一度口を開けて言った。そこにスカイブルーの気配はまるでなかった。
「イメージと違うっていうか、イメージ不足ってカンジじゃない?」と、同じくイエローの気配がまるでないサンダーが言った。そうかな、と僕が言うと、サンダーとウィンドの二人がうんうんと肯いた。すでに四人とも朝ご飯のお皿をすべて空にしていた。
「でも、とってもすてきな名前だと思うな。大事にしなきゃね」とスターが奇妙な表情で僕に言った。他の二人も同じようなことを思っているようだ。僕が、ありがとう、と三人に言うと、魔法少女たちは一斉に席を立ち、魔法で朝ご飯の後片づけをし、まとめてあった荷物を持ってアトリエを出て行った。
 それから後、彼女たちがここに戻ってくることはなかった。もしかするとあの奇妙な表情は、僕との別れのしるしだったのかもしれない。そう、あれは何かと別れる者の顔だった。強くて凛々しい彼女たちは、きっとそれまであんな表情をしたことがなかったのだろう。
 僕はテーブルの炊飯器の上に手紙のようなものが置いてあるのに気がついた。手に取り、開いてみると、真っ白な紙に黒いペンでこう書かれていた。

 

     *
  
   わたしたち三人は、
   魔法よりも少女のほうを
   大切にすることに決めました。
   魔法少女は今日でおしまい。
   いままでありがとう、楽しかったです。
   では、さようなら。

 

     *

 

 思えば、僕は彼女たちのことを全然知らなかった。少女としての彼女たちを。三人とも、年はいくつだったのだろう。魔法少女にも年はあるはずだ。スター、サンダー、ウィンドは本当の名前なのだろうか。たとえ違ったとしても、それらはそれぞれ彼女たちにぴったりの名前だったと思う。名前とは本来そういうものだ。
 魔法少女だった彼女たち。イメージカラーのあった生活。三人の魔法少女が去ったこのアトリエは今までの奇妙な雰囲気がいささか薄れ、淋しさの量がちょっとだけ増し、とてもとても広々としていた。三人にそれぞれ花束でもあげることができたならな、と僕は思った。もちろん、花の色を迷うことはない。

 薄手の上衣を羽織り、外に出た。道沿いの桜の蕾はまるまると膨れていて、家々の前庭に植わっている百日紅はつるりとその細身を際立たせていた。季節の巡りの凝縮の切れ端がそこかしこに落っこちていた。
 スイッチを押した後、炊飯器はそのまま放っておくことにした。僕の役目はそれで終わりのような気がした。魔法でぴかぴかと清潔になった炊飯器の釜のなかで何が起ころうが、もはや僕の手に負えるところにはないのだ。文房具が楽しげに踊りだそうと、電子機器とコードがデュエットを組もうと、それは炊飯器の機能であって、さらには魔法の力なのだから。僕はただ炊飯ボタンを押すだけで精一杯なのだ。
 最寄りの駅まで歩いて行き、電車に乗った。裏庭の向こうを走る例の小さな電車だ。アトリエに住んでいた間はほとんど毎日、目にし耳にしていたが、実際に自分が乗るというのはそれが初めてだった。また、その一度で最後の乗車ということにもなるのだが、今思えば少し不思議な気持ちになる。何年にもわたり運行を続けたはずの電車がもう二度とあの場所を、あのルートを走ることがないというのは。
 その車内で僕はスマイリーと顔をあわせることになる。スマイリーとの出会いがこの一日の、そしてこの一年を締めくくる最後の出来事なのだ。一応僕にとって、と付け加えてはおく。スマイリーは僕にこう話しかけてくる。
「あの、すみません。以前どこかでお会いしたことは?」
 僕の隣の席に座っていた一人が、突然声をかけてきた。その顔を見た途端、僕は白い気球とそれを運ぶ渡り鳥の声、ひつじ雲、ポップコーンの複合映像を脳裡に見た。わかりきっていたが、一応僕は訊いてみた。
「あのう、お名前は」
「スマイリー、といいます」
 スマイリーが僕の隣に座っていた。とてもスマイリーという顔をしていて、スマイリーの手足そのままで、ほとんど完全なスマイリーだったけれど、僕は目の前のスマイリーに以前会ったこともなければ、見覚えも全くなかった。
「ちょっとわからないです」すみません、と僕は言った。するとスマイリーは、いえいえいいんです、こちらの勘違いですから、と若干眉を寄せてから、穏やかに言った。
「どうしてだろうな、いつか、どこかでお会いしたような気がするんです。他でもない、あなたに。明瞭りとした記憶の欠片のようなものに反射した光のなかに、それが確かに見えるんです」とスマイリーは言った。
「驚きましたよ。だって隣に、当のその人が浮かない顔をして座っているんですから。浮かない顔、そのまんまですよ」
 スマイリーはうれしそうに笑った。僕も、他でもない、「スマイリー」のイメージをいくつか持っているということをスマイリーにあわや言いかけて、止めた。それは少々行きすぎた物言いだと思ったのだ。かわりにスマイリーが意気込んで僕に言った。
「失礼に当たるかもしれません。でも、あなたの名前をお聞きしておきたいんです。ありふれた一日を特別に彩る思い出として」
 僕は名前を持っていないということを伝えた。するとスマイリーは短い間考え込むような顔をした後、これから素敵な名前に出会えるといいですね、とにこやかに言った。僕は肯いた。
 いくつかの駅に停まりつつ、電車はたえず走り続けた。その間に四人で暮らしたあの奇妙なアトリエも通り過ぎた。いつも通りの、木造で古めかしい見てくれの平屋だった。僕とスマイリーはお互い黙って、窓の外の空や風景を眺めていた。見知った町の見知った景色を見ながら、僕はずっと遠くにあるはずの町や季節を想った。三人の少女の行く先を想った。そして炊飯器の魔法について想った。
 次第に電車は速度を増していった。窓の外の風景が徐々に輪郭を失っていったかと思うと、風を切って唸るような音が響きわたってきた。小さな車体と不釣り合いに、猛スピードで走り続ける電車に揺られて、僕もスマイリーも前へ前へと進み続けた。直線を彼方まで突き進んでいるのか、差しわたり無限の円をぐるぐると回り続けているのか、どちらにせよ同じことだった。どこへ向かって走っているのかまるでわからなかったけれど、僕らはこの小さな電車に乗ってどこかへと確かに向かっていた。
 僕は僕の、スマイリーはスマイリーの、少女たちは少女たちの、遠くにある目的地をめざして。あるいは、探して。




Serani Poji - スマイリーを探して / where is smiley?