太陽の光線が僅かに揺れた気がした。それを見たとき、急にどこかへ帰りたくなった。そう『おれ』が言うと、それは気のせいだ、と『羊をめぐる冒険』は言った。
「だってそんなものこれまで見たことないよ。窓もないし、光が届くはずもない。残念だけれど」
「でも見えたような気がしたんだ。見えたような気がしたって事はさ、見えたってことにならないかな?」
「ならない」
ここは〈地下〉なのだ。上に地面があり、下にも地面がある。
『羊をめぐる冒険』はずっと何かを読んでいる。とても熱心にページを繰っていて、もう少しで顔にページがくっつきそうなくらいになっている。
「さっきから何を読んでるのさ。ずいぶんと好きみたいだけど」
『羊をめぐる冒険』はやっと顔を上げた。そして病的なまでに『おれ』の目をじいっとのぞき込んだ。さらにさらにとのぞき込みつづけている。
「なあ、何を読んで――」
「聞きたいかい」
「近い。顔が近いよ」
自分から離れる気は『羊をめぐる冒険』にはないようだから、『おれ』はうしろに半歩分下がった。
「そうくってかかってこられるとなあ、なんか面倒くさいよなあ」
「『村上春樹』さ」
「・・・・・・何だって?」
「だから、ぼくがいま読んでいるこれは、『村上春樹』ってやつなんだよ」
『羊をめぐる冒険』はその『村上春樹』をずいと『おれ』のほうに向けて寄こした。それは独特な形をしている。使いこまれた、古びたあじわいが点々と見受けられる。『おれ』は懐かしいような、そういうもどかしい気分にさせられた。
「ああ、なるほどね」
『おれ』はひとつ思った。何となくだけれど、それを言ってしまうと『羊をめぐる冒険』をかなり怒らせてしまうのではないかとも思った。いろいろ思うことがあって、そういうのを貯めこんでしまうのはよくないなとも思った。
だから『おれ』はそれを言うことにした。
「何となく思ったんだけど、おまえたち、まるっきり逆というか、おかしくないか?」と言った。
これを聞いた『羊をめぐる冒険』は怒りに怒ってしまって、しまいには『村上春樹』のなかに愚図愚図何やら不平を言いながらすっぽりと隠れてしまった。
「ああもう悪かったよ、ほんとに。べつに怒らせようと言ったわけじゃないんだ。ただおれにもそういう立場みたいな、いや違うな、立場じゃない、そういう意識というか、違う、意識じゃないな、ええと、そう、傾向みたいなものを大事にしたくてさ」
意気消沈した『羊をめぐる冒険』は『村上春樹』にすっかり埋まってしまっていて、『おれ』の言うことなどにはまるで聞く耳をもたない姿勢だ。やれやれ、と『おれ』は思った。こいつはこういうナイーブなところがあるのか。覚えておかなければいけないな。
何のために?
*
部屋の隅では、前回に見えない水が捌けてからというもの、『幼い魔法少女』と『広辞苑第四版』が
『幼い魔法少女』は言った。
「子供だから大きな声で泣くしかないんだよね。あーあ。オギャアア!」
『広辞苑第四版』は言った。
「かえる」
*
ひた、ひた、と音がする。
天井から滲み出た水が落ちて、床に着地する音だ。
「もうそんな頃あいか」
『おれ』は突然『イトーヨーカ堂』のことを思い出した。海の近くにある、四十年来の『イトーヨーカ堂』だ。『イトーヨーカ堂』の地下階ではよく雨漏りがしていたのだった。それは実に心暖まる思い出のような気がした。
「なあ、そろそろ出てこないと溺れて死んじまうよ。これきりの付き合いとはいえ、そうやってちょっと死なれちまうとバツが悪いんだ。ほら、悪かったからさ」
「ぼくだって、隠れたくて隠れたんじゃないんだからな」
ようやく、とぼとぼといった調子で『羊をめぐる冒険』は『村上春樹』から出てきた。
「何か、そういう意味あいを見つけたような気がしたがために、隠れるみたいな感じになっちゃったけれど」
「わかってるよ。そういうもんさ」
「そうなんだ」
『羊をめぐる冒険』は遠くを見るように地面を見て言った。
「いつもそうなんだ」
『おれ』たちは仲直りの握手をする。『羊をめぐる冒険』は大事そうに『村上春樹』を斜め掛鞄にしまった。
ひた、ひた、と音がし続けている。終わりの音だ。
見えない水が見えない層を床につみ重ねていく。見えないのだから水である必要がないといえばないのだが、水のほかにちょうどよくしっくりくるものがないから、水でいい。この水のような水は見えないうちに見えない終わりを演出している。見えないのだから終わりである必要がないといえばないのだが、終わりとはそういうものだ。
『羊をめぐる冒険』は鞄を肩に掛けて、言った。
「太陽の光が見えたなんて、これからは言わないほうがいいと思うな。結局は見えるわけないんだから。そういうのって、ちょっとした衝突の引きがねになるんだよ」
「わかった、もう言わないよ」
『おれ』は少し悩んだけれど、そう言った。
「あとね、帰りたい、とかなんとか言ってたね?」
「うん、言ったよ」
「それも止めておいたほうがいい。口に出すことだけじゃなく、考えるようなことも」
『おれ』はおぼろげに、それはそうかもしれないな、と思った。
「難しいからさ」『羊をめぐる冒険』は重ねて言った。「あまり考えすぎないほうがいい」
「わかったよ」と『おれ』は肯いた。
「でも、おれがそう言ったとき、おまえは受け流してくれたよな。どうしてさ?」
それには『羊をめぐる冒険』は微かに笑みをうかべただけで、何も言わなかった。その仕種は、先ほどまでとはうって変わって大人びていて、『おれ』は何だか淋しくなった。
終わりなのだ。
*
徐々に見えない水がもう部屋全体を充たそうとしていた。『羊をめぐる冒険』はこの部屋からとっくに出て行ってしまった後だった。帰る場所に帰って行ったのだと思う。水で充たされた部屋に残るのは『おれ』ひとりなのだ。そういうことになっている。この水がすべて引いてしまった後に、またすべてが始まりだす。
『おれ』はベッドに入って何とか眠ろうとする。水が充ちている間は眠ったほうがいいだろうし、眠らないと溺れ死んでしまうような、そんな気がするからだ。
*
「オギャアア!」と、不意に『幼い魔法少女』が消えた。言葉を喪ってしまったのだ。魔法は言葉だけど、言葉は魔法ではない。そのことを知ってしまったのだと思う。
「かえる」と、『広辞苑第四版』はそう言ってひとつ首を傾げた後、いきなり「うあああああ!」と絶叫しながらものすごい勢いで自らを引きはじめた。
*
見えない水がその水位を上げていく。
そうして、やっとのことで完全なる眠りがおとずれたころ、部屋の隅から隅まで、見えない水でぴったりと充たされる。気配が消え、温度が下がり、しめし合わされたようにひっそりと静まりかえる。それを合図に『おれ』はすべてのことを忘れる。あらゆるすべてのことを。すべてを忘れるということだけを忘れずに、すべてを忘れる。
それを、繰り返し、繰り返す。
『おれ』は〈地下〉の夜が明けるまで、枕に顔をうずめたまま、ふたたび起きるまで眠る。