神さまがやってきた


 日曜日の朝はたいてい気持ちよく晴れているか、もしくはしとしとと雨が降っているものだ。晴れていればとても気分よく起き上がることができるし、一方雨でもまずそれほど悪い気分にはならないことが多い。冬になると偶さか、しんしんと雪が降ることもあるがおれの住むこの地域ではそう滅多にない。日曜日の朝は晴れか雨、そういうものなのだ。
 おれにとっての日曜日とはそういうもので、おれの意志や世界の常識などというささいな作用にはびくともしない。おれの方から日曜日にせっせと働きかけるということは一切なく、日曜日がおれに向けてあれこれを寄越してくるばかりなのだ。だからといって今までそれらを拒んだことは一度もないし、拒むような厄介で面倒なものが投げ込まれた記憶も特にはない。たぶんそのようなやり取りはこの先もずっと変わらないような気がする。おれは週の最終日のような、あるいは初日のような日曜日という日を当たり前の気分で受け入れていくだろう。そしてその日の朝はいつも決まって、溢れんばかりの角度ある光か、謙虚さを帯びた水が空の上から降り注ぐのだ。
 そういった大きな枠での決まり事というのは、自分の送る生活のなかで意味を持ち始めた途端に、その発生と遂行の必然性がとみに生じてくる。ようは気持ちの持ちようというやつに関係してくるのだが、たとえば「後ろ歩きが普通として育った人は、歩くにつれさらにさらにと過去へ進む」のような珍奇な言説がそういった決まり事として己の裡に定着すれば、常にその蓋然性を広汎に渡って認めながら生活することになるのかもしれない。そこまでの極論はおれにも今いちよくわからないが、大方そのようなものは例外として一笑に付されてしまうだろう。

 だけれど、その日の朝は薄い灰色の曇り空で、曖昧な覇気のない雲がどこまでも続いて広がっていた。寝起きの行灯頭で、ものを考えようにも右と言えば猿と返すような夢の状態から取りあえず身体も頭もベッドの面に対して垂直にもっていき、昨日は土曜日だったから今日は日曜日、とおれは居合い切りのジェスチャーをしながら結論づける。そもそも、と思って窓の外をいまいちど見ると、やはり天気は完全なる曇りだ。
 これはちょっとしたニュースになっているだろうな、と思いテレビのリモコンを目だけで探してみたものの見当たらない。昨日の疲れをあからさまに引きずって半端に散らかった部屋の窓辺に、おぼろげに光が射し込んでいる。三分の一ほど飲み残していたコカ・コーラのペットボトルが濁ったカーテンや雲越しの陽光をわずかに免れていて、おれは真っ黒に見えるそれを一気に飲み干した。明かりはつけなくてもいいか、と決めコカ・コーラを取り除けて平らになった座卓に腰をおろす。そしてなんとなく、えいと右足を前に振り子のように前後させる。
「起きろ」
「う、いたい蹴るなやめろ」
 もういちど、今度は蹴りといえるくらい強めに蹴りを入れると、かれはぐるんぐるんと向こうへいってしまった。かれが先ほどまでうずくまっていた場所とベッドのあいだにリモコンが裏向きに伏せていたので、拾い上げて電源を入れる。沈黙と電子音が混ざった静寂が五秒ほどあり、テレビの映像と追って音声が届いてくる気配がする。キッチンの方へ転がっていったかれはもぞもぞと身を捩りながら大きな欠伸をした。地べたで寝ていたのにもかかわらず、かれの服には皺ひとつなく寝癖はそうあるべき均整を保っている。さして痛くもないだろうに、かれはおれに蹴られたことについてぶつぶつ小声で悪態をついている。
「なあ、見てみろよ外。曇りだよ」
「え、なに? 曇り?」
 かれは判然としない視線を窓の外の方に向けながら、もういちど長めの欠伸をした。
「そうだねえ、うん。曇り。ぼく曇り大好きだよ。ほんとに。雲の切れ目から集まった太陽の光が地上に何本も射し込む、神の降臨って感じのあれ、ほんといいよねえ」
「いやそういうことじゃなくて。ほら今日日曜日だろう?」
「日曜日だね」
 どうやらかれはおれの言っていることがよくわかっていないらしい。眉間に皺を寄せ、おれの次の言葉を待っている。
 そこでぴんと、ああそうか、とおれは思い、かれにこの世界における日曜日の朝のありようについて簡単に話をした。あれである。この世界の人間にとっては自明すぎてわざわざ説明するまでもない、あの日曜朝晴雨二元論である。
 かれからところどころ断片的に話を聞いたかぎり、かれはこの世界に来てまだ間もないのだという。何だかんだを経たあげく、結局おれの部屋に住まうことになった、ということらしい。その話というかそれを聞いたおれの記憶は本当に断片的で、かれがここに来ることになった詳しい経緯やどこから来たのかなど、知ってしかるべき事柄の多くは未だ曖昧で不鮮明なままなのだが、不思議とそれでも不安だとか疑わしいという感覚はほとんど認識されないのだ。
 おれの話を聞いたかれは立ち上がりつつ一言、
「なるほどねえ」
 と呟いたきり、それについて他に何か訊いてきたり意見を示したりはしなかった。まさになるほどということを、なるほど、と言ってそれを受け止めたような、直線的な収まりのよさのようなものを語感から感じた。
 かれはかれであってかれは「ぼく」と自称するが、かれの身体は女のそれそのものだった。いろいろな特徴があるなかで何をもってかれの身体が女だと決めるのか、おれには正確にとらえることができない。裸体を目撃したわけでもないし、どの部位をとって見てもほとんど中性的で捉えどころがない。ただひとつ、かれは綺麗すぎるのだ。それは女性特有の、光の氾濫のような、非合理的な輝きをおびている。
 しばらく手中で弄んでいたコカ・コーラのペットボトルをキッチンのゴミ入れに持っていこうとした時、ふとテレビに目がいき、それが全く機能していないことに気がついた。チャンネルを回すこともできず、ましてや電源を切ることもできなくなっている。ニュースどころか形あるものは何も映っておらず、ひたすらに静寂とつんという電子音の綯い交ぜになった音が響いてくる。さっき確かに見え、聞こえたはずの馴染みある映像や音声は習慣からくる錯覚だったのだろうか。そもそも最近テレビなんて見ることがあっただろうか。最後に電源を入れたのはいつのことだっただろう。不自然に膨らみ出した記憶の欠損にもやもやとしながら取りあえずペットボトルをボトルとキャップとラベルに分別して捨て、おれは今本当に日曜日の朝を過ごしているのか、と考える。日曜日の朝にしてはいささか「いつもの流れ」を逸しているような気がする。
「テレビつかないの?」とかれが不満げに言う。
「たぶんついてはいるんだけど、動かない」
 かれはふうんと言い、腕を上げて伸びをしたあと、透きとおるような長い指の先で背中を揉んだ。そして座ったままの体勢で両足をぴんと前に伸ばし、大腿の裏側と真っ白なふくらはぎを子犬を撫でるように解した。かれによってなされるそういうひとつひとつの挙動はどれも見事で、可憐や優雅を超えた尊さのようなもの、あるいは懐かしさのような情動がそのなかにいつわりなく含まれていた。一通りの柔軟を終えると、始終それをぼんやりと眺めていたおれに向かってかれは言った。
「まあ、仕方ないんじゃないかな。いろいろと」
 どういうこと、と返そうとした時、何やら遠くの方から奇妙な音が近づいてくるのが聞こえてきた。同時に近くからも、たとえばテレビのスピーカーからも、同じような音が流れているような気もする。かれは立ち上がって窓辺へとゆっくり歩いていき、外を一瞥したあと右手で勢いよく窓を開いた。それは、ツトン・トゥ・ツ・トロントロンツトン・トゥ・ツ・トロントロンと聞こえている。厳密には、それに近い音感やリズムがポリフォニックな波として伝わってきている。雲の間からは幾筋ものごく細い光芒が街の建物や草木に降り注ぎ、真っ直ぐに澄み渡る雨上がりのような静けさがそこここを包み始めていた。その静けさを破ることのないよう慎重に、けれども決然とその音は徐々に響きを広げている。ツトン・トゥ・ツ・トロントロンツトン・トゥ・ツ・トロントロン……
「何だろう、この音」とおれはかれの隣に並び、同じように窓から首だけを出して外の様子を窺った。相変わらず音は鳴っていたがその音量の上昇速度は抑えめになりつつあり、一定した秩序のようなものが次第にあたりを覆い始めた。
「外出てみる?」とかれが愉快そうに、けれどもほんの少しだけ淋しそうな顔で言った。おれはその表情に若干戸惑ったが、それはほんの一瞬のことで、
「いいね」
と言って各々簡単に身支度をし、ふたり揃って部屋を出た。背後でテレビがパッと一瞬発光したような気配がしたが、おれは特に気に留めなかった。

 歩きながらふと腕時計を見ると九時半を少し回ったところを指していた。普段、晴れた日曜日の朝は近所の小さな公園や川沿いの道へよく散歩に出るのだが、曇り空の下を手ぶらで歩くというのはいつもと違って落ち着かない感じがした。湿ってアスファルトに張りついた落葉や潰れかけた銀杏の実をよけながら歩いていると、目の前をスズメかセキレイかが鳴き声をあげながら飛び上がっていった。す速く羽を振って遠ざかっていく小鳥たちを見送りながら、かれらのなかで拍動している心臓はちょうどこの銀杏の実ぐらいだろうかと思う。
 白のライトダウンを軽く羽織ったかれの隣を歩いていると、何か大事なことを思い出しそうな、けれどもそんなことは全くないような、そわそわした感覚に陥った。かれとはどこで出会って、どのようにして親しくなったのだったろう。これまでどんな話をして、どれくらい馬鹿なことで笑い合っただろう。一体いつからおれは、かれと一緒にいるのだろう。かれについて思えば思うほど行く先が霞がかっていき、かろうじてかれの身体の輪郭が見えるだけの視野しか残らない。
 しばらく住宅地を歩いて幼稚園と小学校を抜け、ふたつ小さめの踏切を越えるとやや高い建築や幅の広い国道が顔を出し始める。ちょっと来たほうを振り返ってみると、海の上にある小高い丘のようなお椀型の小島の頂に建っている灯台が、いつの間にか豆粒とはいかないまでもかなり小さくなっている。
「静かすぎる」と、おれはその灯台を見ながら口から漏れ出すように不明瞭に言う。
「うん」
「人がいない」
「ね」
 かれはさっきから全く平気な顔をしているが、おれはといえば気が気ではない。そもそも部屋を出てからまだ一度も人に会っていないのだ。無意識のうちに人のいそうな街の中心部を目指して歩いてきたが、見かけるのは騒がしく鳴いている小鳥やカラスか近所に棲みついている野良猫くらいだった。相変わらず、ツトン・トゥ・ツ・トロントロン、と無機質な音があたりを響かせている。ちらちらと時折、雲の切れ間から射す光がかれの上を横切り、涼気と穏和の混じったぬるい風が吹いた。

 ターミナル駅の前の広い目抜き通りに入った。変わらず人気がなく、沈黙が例の高い音とともに聞こえてくる。二車線道路のセンターラインを挟むようにしてかれと並んで立ち、音の出所をあてもなく探ってみる。自分たち以外人がひとりもおらず動きの一切ない街のなかは、まるで宿主を失った貝殻のように空疎な趣があって、普段とは全く違って見える。機能から取り外された様はいささか滑稽でもある。ツトン・トゥ・ツ・トロントロン、それは聞こえる。どの方位ともわからない全体に、不可思議な響きが続く。しかし不快な心地はしない。追いかけていることからもわかるように、何とはなしに味方のような親近感がその音には含まれているのだ。かれの表情からもそのことは確かに読み取ることができた。
 しばらくそこでじっと耳を澄ましていると、庇の奥の汚れたショーウィンドウや路地へと繋がるささやかな丁字路から静かに、けれども確かな人のさざめきのようなにぎわいも感じられてきた。目に見えず耳で聞こえないにぎわいを心の内ではしっかり受け止めている実感があるものの、身体はといえばこの人曇り切った人の気配がまるでない街にまぎれもなく地歩を固めている。どちらが本当の自分で、どちらがあるいは間違った自分なのだろうか。もしその差が明確にあるとするならば、おれはどちらの住人なのだろう。
「ぼくがいるから、きみはこの街を見ているんだ」とかれはセンターラインの向こう側で言った。とても遠くの場所から聞こえてくるような感じがしたが、かれの身体は依然としてすぐ手の届くところにある。おれはおれというひとりの人間が分裂しているように感じ、だがそれはおれではなく別の外界の何かが分裂しているようにも思われてくる。
「ぼくはこの街を見ている。死んでしまった街も、にぎわいの絶えない街も。どちらの方が正しいなんてことは本当はないんだ。ただぼくはこれらを傍から眺めることしかできないし、きみもそうするしかない。それが自然の法則なのさ」
 おれはうん、とだけ呟いた。不意にそれはとても自然なことだという気がした。おれはかれと並んでいるから、いまこうしてここにいて、分裂した何かを眺めているんだろうと。
「きみは、ぼくがきみの部屋に住み始めたころのことを覚えているかい?」とかれはじっと前を見据えたまま言った。
「ごめん、それがどうしても思い出せないんだよ。というか、おまえに関係するほとんどのことをなぜか覚えていないんだ」
「そうだろう。でもそれは、ぼくらにとって致命的なことになっているかな。どうしようもない溝になってしまっているかな」
 おれは考えるまでもなく言った。「そんなことは全くない。なんというか、それはまた違った問題のような気がする。うまくは言えないけど」
 そう言ってから、ふと得心が行った。多くを知っていることと、それをわかっているということはまるで異なるように、おれはまるで未知のかれのことを、けれどもよくわかっているような感覚があった。それは危うさと信念との微妙な均衡のもとに立ち上がっていて、そういう例外的な感覚を大事にすることがおれにとってかけがえのない営みだということをその時思った。
「それを聞けてなんだかほっとしたよ」
 かれは完璧な微笑みを浮かべたまま、そうおれに言った。途端に愛しさや懐かしさに似た感情の急流が押し寄せ、またあの何かを思い出せそうな、どうしようもないほどの熱を持った叙情が身体の内側で弾けそうになった。
 かれの完璧な微笑みを合図にしたかのように、しばらく一定の規模を保っていた曇りの度合いやツトン・トゥ・ツ・トロントロンという音が、徐々に低調の兆しをみせ始めたかと思うと、空の周縁、地平線の彼方へ向けて無数の物体が落下していくのが見えてきた。
 この圧倒的な状況に時間の感覚が音を立てて歪み始めるのがわかった。腕時計を見るとすでに九時半を少し回った時点でその機能を停止していた。もうここは今までの日曜日の朝ではないのだろう。いや、待てよ。日曜日の朝が晴れか雨なのは、そして日曜日の確定的なあの様相は、一体いつからおれの身に纏わっているのだったろう。気づけばそうなっていた。そういうものなのだ。そう無抵抗に今まで受容してきたが、果たして本当にそれは正しさを持っているのだろうか。
 そこでちらと視界の端で光が反射し、かれの遠くへ向けられた鋭い目を見た時、パライソ! という掛け声のような統一的な音声が四方の周縁から一斉に鳴り響いてきた。それは振動を帯びた地鳴りとなって、電流のごとき速さでおれとかれのいるこの一点に集中した。
 落下する物体はよく見ると人間の形をしていて、一心不乱に両腕を上下に振り回していた。表情までは確認できそうにないが、たとえ目の前に出されたとしてもおよそ理解しがたいであろうものであることは想像できた。落下の速度はごく緩やかで、自分たちが落下しているという状況すらもしかすると認識していないのではないだろうかというほどだった。おれは思わず、
「……神さま?」と呟いたが、かれは、
「いいや違う。かれらは地球人だよ」と落ち着き払って言った。かれの表情は凛々しさに溢れていて、美しかった。
「地球人? それはいったい……」
「うん、地球という星に棲む、人間のことさ。それでかれらはたぶん、飛ぼうとしているんだ」
 確かにかれらは両腕をちぎれんばかりに振っていて、それは飛ぼうとしているようにも見えた。
「でも、落ちていってしまってるじゃないか。そもそもなぜこんなところにそんな星の人間たちが」
 そこまで言ったところでおれは急に言葉に詰まってしまった。もう、何かが違ってしまっているのだ。日曜日の朝が、あらゆる決まり事ががらがらと音を立てて崩れていってしまうのを、おれはただただ見届けるしかなかった。けれどどうしてか、これらの崩壊を異常として見なすことがどうしてもできなかった。
「それは直に思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。けどきっと、きみは思い出すよ。きみにとって地球は、おそらくとても大事なところだから」
 うん、と力なくこぼすと、かれの左手がおれの右手を包み込むのがわかった。しなやかに伸びるかれの指と掌の曲線がおれの歪な凹凸の穴を埋めた。かれという危うい存在のなかへとこの身をすべて投じてしまいたくなったが、何かしらの思いが強く働いて踏みとどまった。それはおそらく行きすぎた行為で、おれの容量を遥かに超えてしまう結果をもたらすだろうから。
 緩やかに、だが確実に落ちていく地球人からは絶えず、パライソ! という掛け声と、あきらめるな! という叱咤の声が渦を巻いて轟いていた。楽園を求め、必死に飛ぼうとしているかれらはひとり、またひとりと地平線の向こう側に姿を消していった。この場所から眺めていると、かれらは遠くの地面に埋まっていくようにも見えた。つぎつぎと上から下に流れていくかれらはどことなく機械的で、避けることのできない墜落には非常な切なさが漂っていた。
 しばらくの間、地球人が大地に吸収されていく様子を呆然と眺めていた。その間中ずっとかれはおれの手を包んだまま離さなかった。センターラインのちょうど真上でおれとかれの手が繋がれていて、そのラインは踏み越えてはならない線のようでもあったし、おれとかれとを分ける不可欠な目印のようでもあった。おれはかれに片手を握ってもらいながら、だんだんと消えつつあるかれら地球人たちにも、かけがえのない何かが余すところなく宿っていることを、ただひたすらに願った。

 すべての地球人が地面のなかへと姿を消してしまうと、空にほとんど張り詰めていた雲が互いに透き間を開き出した。そして無数の光の筋が天から地上に降り注ぎ、おれとかれの頭上からは一際太い光芒が一直線に射し込んだ。かれはおれの手をゆっくりと離すと、その光のなかへと真っ直ぐ上を向いて昇っていった。たぶん、かれはかれの場所へと還っていってしまったのだろうと思う。かれはもともとこの世界の住人ではないだろうから。
 かれはおれに何も形あるものを残していかなかった。ただ口をきちっと閉じ、けれどもあの完璧な微笑をたたえて、空の向こうへと永遠に行ってしまった。結局かれは一体何だったのか、わからないままだったが、それはおれ自身についてもいえることだったし、そもそもわからないことはどうしようもないのだ。かれが本当におれの隣にいたのかどうかも今となってはよくわからない。とにかく、かれが去ったあとすぐ天気は晴れ渡り、まもなく正午のサイレンが街中に響き渡った。日曜日はもう、午後に差し掛かったのだ。
 何人かとともに踏切が開くのを待ちながら、おれには帰る場所が果たしてあるだろうか、と考えている。確かな時間というもののなかにおれはいて、確かな記憶というものが連綿と続いているだろうか、と。でも結局よくわからなくなってしまって、騒がしく通り過ぎていった満員の二両編成の小さな電車を見送り、開いた踏切を人々と並んで歩きながら、あらゆるわからないことをわからないなりに受け止めよう、と心に言い聞かせてみる。
 おれはさっき歩いてきた道を遡り、灰色にさびれた外壁の自分の部屋に戻り、何も置かれていない座卓に座って、三十分泣いた。最後に泣いたのはいつだっただろうと考える余裕のないほど、止めどなく涙が溢れてきた。そしてふと目を向けたテレビに映る文字を見て、もう三十分泣いた。ようやく泣き止んで顔を上げると、窓からは午後の薄い光が射し込んでいた。部屋は中途半端に散らかったままで、確かにかれのいた跡がかすかに残っていた。
 右手にはまだかれの手の温もりが感じられた。目を閉じると、ツトン・トゥ・ツ・トロントロンという音が残夢のように響いていた。