ある町の葬儀(あるいは、ある夢の断絶)

 

 1 悲しみをもって


 深く不明瞭な翡翠の風を町中がまとい着飾るその日、その刻、それは腹の底にまで届く爆音を皮切りにして突如始まる。
 吉能はまだ気がついていない。じっと眠っているためでもあるし、豊かに広がる早朝の喚起的な夢の内で漂っているためでもあるし、あるひとりの、ひとりと思われる魅力的な誰かに恋心を抱きつつあるためであるかもしれない。それは恋心ではないのかもしれないし、対象は人ではないのかもしれないし、ともすれば夢ではなくまた別な情景を見ているのかもしれない。しだいに、その魅力的な何かが変身剤となって、吉能は精神的に自由になっていくのを感じる。両性具有、と思う。それは実に心地の良い感覚であると同時に、その何かの方はというと、そうした自認と入れ替わるようにしてどこかに消え去っている。
 目まぐるしい場面転換の速度にその身をまったくゆだねている吉能にとって、それが聞こえていたにせよ聞こえていなかったにせよ、翡翠色の爆音は遠い雷鳴としてただ受け流せばよかった。しかし、夢の情景はしだいに悲しみの色を帯びつつあり、かれはかれの現実の肉体とのつながりを取り戻さなくてはならなくなる。森に面した錆びまみれの廃倉庫、あるいは大粒の涙によって浸水し木床のふやけた葬儀場のような空っぽの空間を後目に、自由に動かせる翼を得た吉能は振り返らず、ゆるやかに角度をつけて離陸する。空はあらゆることが固定されていて、場面や視界が変化してゆかず、薄青く見えるという情報に時間が便乗することでどうにか均衡を保っているばかりだった。いつしか、速度は無くなっている。緩慢な浮遊の途中、ごく原始的な感触のあるぶ厚い雲にぶつかり、両翼の先端をじっとりと絡み取られ身動きができないことを知った時、吉能は通り過ぎてきた悲しみのわけをひとつも憶えていないことに気がつく。
 そして、吉能は確かにその爆音を耳の浅い膜でとらえる。と同時に、木造アパートの一室である部屋の玄関ドアを一頭の栗色の正統的な毛並をもつ馬が突き破ってきて、その勢いのままに廊下の薄い壁も湿りけをもった尖った鼻面で粉々に破壊してしまう。その馬は首元で街路に面した廊下の壁を、大きな尻でドアを貫いたままの状態でバーベルのようにがんじがらめになっており、横倒された煙突さながらフシューフシューと荒い呼吸を繰り返している。突撃の残り香である微小な塵埃にまぎれ、馬の体表から発せられる野生の生々しい匂いが部屋一面にむっと充満していく。
 おれはこの音を知っている、と吉能は思う。
 簡素な鞍の鎖紐を脇下にしかと結び直している間、馬は宙に浮いた四足をわなわな遊ばせながら控えめに失禁していたが、吉能はとくに気に留めずに作業をつづけた。最後の留具をきつく締めたその時、再度、爆音が大様に轟きをあげる。頭は何とか壁から抜けたが尻の肉にめり込んでしまったドアはどう工夫しても抜けそうになかった。しかし吉能はとにかく急いでいて、余裕もなく最後の一滴を垂らし終えた馬もそれに気づいていなかったため、そのまま放っておかれた。
 町は柄のあちこちで岬のとび出したハンドベルのような形状をしている。各岬はその町の成果を象徴する先端部であり、反対に逆岬と呼ばれる凹んだ地域はその町の至らない側面を示すものであって、そういった凹凸が町の辿ってきた歴史の見取図と言える。キャスティング、つまりベル部分にあたる放射状の土地は町最大の岬であり、見事な三角錐の丘になっていてこの町を錐丘の町と呼ばしめる所以となっている。そしてその丘は、三方を雲を衝くほどおそろしく高大な石壁に囲まれている。壁はその方角に向けて継目なくどこまでもつづいていて、世界の成立ちそのままに下界側に反り返るようにして街衢を見下ろしつづけている。
 壁は自然の気まぐれなはからいであり、《壁の彼方》の一方への浸食を阻むためのものとされているが、その存在の確認に成功した話というのは未だもって聞こえない。とある世、地中深くからそれへの到達を試みた一団があったが、天然の壁は地下へも無限と思われるほど伸びていて、あまつさえ巨人の瞳孔というふうに妖しく発光さえしていたという。《彼方》はある種、壁の高さと同様言伝えの類であり、それというのは往々にして人々の強い畏敬と愛情の念から生れ落ちるものであるからかもしれない。壁の向こうに何があるのか、何かがあるのか、それはすなわち無と同義であり、自明のことわりとほとんど同じようにして受け入れられているのである。人々は壁の向こう側を指して南と、誰が言い始めた訳でもなくそう呼び、それはこの世でただひとつの現然たる道標となっているのである。

 そいつはなんだ。
 ひどく参った感じで出てきた葬儀屋はそうこぼすと、吉能をじっと見つめる。
 おれにもわからないよ、と吉能は手綱を手ごろな石柱に引掛けて答える。
 そんなことはどうでもいいんだ。
 吉能は表の電車通りに踏み出していく葬儀屋についていきながらその意図を訊ねると、かれは馬のほうを指で示して、
 このケツのはなんなんだ?
 天を目指し運行をつづける朝陽が一瞬の雲隠に入ったその時、翡翠の魚影が馬の毛並の稜線を泳いだかのように見えた。ふたり共にその現象の目撃の感触を共有し目配せまでしたが、何の目配せであるかはお互いにわかっていなかった。
 ドアだよ、おれのうちの玄関の。寝起きにこいつが突っ込んできて、てこでも何でも嵌ったまま抜けない、と吉能は簡潔に状況をまとめた。馬は彼らの話に耳を傾けることなく、いつになく賑わいを見せる町筋の人々と真っ直ぐ南へと伸びていく路面電車の線路をもの珍しげに眺めている。爆音が鳴った影響で路面電車は始発から運転を取り止めており、目抜通りは多くの歩行者で溢れつつある。
 やっぱり、音と何か関係があるのか。
 それもわからない。でも鳴ったからには行ってみるしかない。そう言われたわけでも、そうしなくちゃならないというわけでもないけど。
 戻るってことか。もうここにはいられないのか。
 吉能は何も言わず少しの間黙っている。
 すべてのことにはそれに相応しい意味がある、という吉能の言に、葬儀屋はよくわからないというふうに首を振る。
 そう考えるのが、真実にもっともらしく近づくための方法なんだよ。
 吉能の顔色がみるみるうちに蒼白になっていくのがわかる。それは死後硬直を思わせる冷たさを帯びている。
 葬儀屋は事務所奥の抽斗の南京錠を外し、ところどころが縺れてしまっている純白のウェディングドレスを中から掴み取る。それが吉能の助けになるのか負担になるのかどうかわからなかったが、自分にしてやれるのはそれくらいしかなかった。
 これは父さんの、と拒否するよりも先に、哲、おまえは一緒に来ないのか、と葬儀屋を訪ねた理由である疑問を投げかけると、葬儀屋はそこまでしないんだよ、ほら、早く着ろ、と言って背を向け、南京錠をくず籠に投げ入れる。
 葬儀屋は実務において失敗とは無縁の優秀者だったが、翡翠に染まっていく町における最大の混乱者でもあった。遺体もなければ、弔いの方式さえ不明で、葬儀プランを建設しようにもまずどこから手をつければいいのか何もわからない。第一に町が死ぬ/死んだということを裏書のないくやみ状で知ったのだし、町の葬儀なんて聞いたこともなければそれに葬儀屋が必要なのかさえ判断がつかない。もはやかれがする仕事の範疇をゆうに、おかしい程度くらいに超えてしまっているのだった。町の葬儀なんてたちの悪いでたらめだ、そんなものは毎晩の数万という町民たちの夢が厚い靄を何かの間違いで喰い破ってきてしまっただけの幻想にすぎない、というかれの本能的な意識は、早暁に立てつづいた爆音と吉能の急な来訪とで今まさに崩れ去ってしまった。
 葬儀屋はその名の通り人間の死というものに限りなく近づいていく役目を担う。しかしそれは死を体験しているということでは決してない。死にべたべたとむやみには触れず、死を適切にコーディネートし、死にそっと寄りそい最後のひとさじをふりかける、いわば死のパティシエなのである。生の側における死のもっとも実際的な理解者であるがゆえに、葬儀屋の哲というひとりの人間は今、自身の空想力に見切りをつけ、考えることを止めた。
 ウェディングドレスに袖を通した吉能に、馬はぎょっとたじろいだが、騎乗しづらそうと見るや否や腹底を地面につけるかというくらい体勢を落として吉能を手助けした。そうして一瞥をくれて南へとひらひら走り去っていく吉能と馬を見送りながら、葬儀屋は二階の自室に上がり床を敷いて電灯を消した。吉能と出会った日以来の重い重い疲労がかれを襲っていた。眼を閉じ、吉能が丘に向かっていく姿を思い浮かべながら、二日ぶりの眠りの沈泥へと潜っていった。

 南の丘は町全体を支配する巨大な墓標としてそこにある。遠方からは濃緑の、完全に滑らかな三角錐として人々の眼に映るが、その実態は何の変哲もない樹木の集合である。接近すればするだけその異様な緑色の立体の方々に個々の生命的な粗目を視認することができるようになるが、それは一般に浸透する樹林への安心――大地の恵みに包まれ、生まれたての嬰児に還るかのような感覚とは一切無縁であって、やはりどこか異質で巨大な構造物なのだという外心を眺望者に与える。緑群の陰の内部はどのようになっているのか、町の人間で知る者は誰ひとりとしていない。
 奇しくも、錐丘の町の呼称とは裏腹に、これを町の一部と見なすかどうかの明確な意思決定を歴代の町長は半ば誇りをもってはぐらかしつづけており、また丘側も丘側で長年に渡り独自の生態系を築き上げているらしいことから、ちぐはぐだが滞りのない均衡が保たれている。そうした均衡の象徴として、双方の連結地点である丘の一頂点には幅十メートル程で長さが僅か三メートルのアーチ橋が両側の壁に沿うようにやや間隔をひらいて架けられている。高壁に挟まれたそこには太陽がちょうど正中の位置に到達したその数秒間しか日光が射し込まず、橋の上に立ち止まっていると数日で自意識を壁の暗黒に吸い込まれ発狂するのだとまことしやかに囁かれる。
 丘と町。かろうじて不分しないそれらを現実に繋ぎ留めているものは何であるのか。
 それは、人間の死である。町で生を終えた者の屍体は、例外なく丘の森へと柩とともに運び入れられ、埋葬される。それがこの町に暮す人々の末路であり、代えのきかない一条の冥福なのである。盛観な錐丘の恰好はそこに埋められた人々の生きた具現であるとも言われ、その信念は、丘における埋葬と因果の相克関係を成している。葬儀が町の各所に点在する葬儀場で行なわれたのち、遺体は橋の手前にある引取所で霊柩車から降ろされ、上裸の丘人たちがそれを丁重に抱え真暗な橋を渡っていく。その光景に、遺族は初めて故人の冥途を目蓋の裏で思い描き、それを辿るための唯一本の細糸としての錐丘を発見する。
 吉能は馬から降り、引取所の窓を覗き見る。平時であれば夜昼問わず中に上裸の丘人が複数駐在しているはずだが、今そこはもぬけの殻である。わかっていたというふうに吉能はひとつ息をつき、再び馬に乗って朝陽の射さぬアーチ橋へと進み出る。
 橋の暗闇にまず馬の頭がすっぽりと侵入する。つづけて、吉能のウェディングドレスの純白が壁の影へと紛れていき、取り込まれる。
 吉能は丘人として産まれ、五つの年の誕生日までそこで過ごした。
 その日にも、翡翠色の爆音が丘の頂で鳴った。そのことだけを吉能は鮮明に記憶している。今日のようによく晴れていて、初めて着せられた上衣越しにも陽射しの熱が背に感じられた。滅多に陽を浴びない丘人は肌が水面のように淡く透き通っていて、吉能はそんな何人かの大人たちに両の手を引かれ、ゆっくりとした足取りで丘を下っていったのだった。
 丘の麓は一面砂利の広場になっていて、何もなかった。山門のようなものもなく、先へと広がっていく錐の底面にも隔壁といったものはない――もともと壮大な「壁」が存在するため、当然といえば当然のことだった。そこはしんとしていた。鬱蒼と茂る森林の向ってやや左の方に内部へとつづく道の入口が見え、吉能は馬を促す。蹄に踏みしめられた細かな砂利が跳ね、真さらに沈黙する広場の空気が微かに揺らぎ、異物が混入し始めていることを丘は悟った。
 一定の傾斜で上方へと伸びていく石畳の道をスダジイやイヌグスの樹冠を分け入るように進みながら、吉能はたった二度の爆音のことを考えていた。丘を出発した時のそれと、今日聞いたそれ。聞いたことがあるのはその二度だけだった。かれは幾度となく、その二回のシンボルを自己に結び付けようと目を覚ましてからというもの隈なく頭を巡らせていたが丸切り判然としなかった。霞に誘われるようにして登りつづけること数十分、沿道の落葉の山の中に木造の民家が離れ離れに見え隠れし出した。曖昧な記憶の内で、丘の天頂が近づいていることを吉能は脳裡に直覚した。
 湿気の籠った林道がついに途切れ、人工的な平地が出現した。その中枢には、近似する三の瓦屋根が折重なった層塔が照葉樹林を従えどこか淋しげに佇んでいる。ここで間違いない、と吉能が思った矢先、ひとつ上裸の人影が中から姿を現した。
 久方ぶりでございます、吉能様。必ずや、お出でになると思っておりました。そのようなお姿で、とは思いもよりませんでしたが
 そう言う丘人は上裸でなく、胸の部分のみを細い麻布で隠しているうら若い女性だった。露出した肩や腹、二の腕は緊密な繊維質のように靱やかで筋張っている。まるで自然の一作用というように白い皮膚を光らんばかりにさせながら、一歩一歩吉能に歩み寄った。
 わからない、と吉能は困惑して言う。
 何が、でございましょう。
 あなたが誰なのか。あなたが、どうしておれの名前を呼ぶのか。どうして、そうしてへりくだるのか。どうして、こうしておれの前に出てきたのか。おれは、いったい何をすべきなのか。
 ――お待ちしておりました。
 じっと吉能の眼を見据え、巫女の風采をした丘人は深い感慨を込めてただそう答えた。それは草木をも心変わりさせるほどの濃艶な微笑を伴っていたが、視線を吉能の背後に立つ馬に移した途端、彼女の表情は風に吹き流されるようにして虚と消失した。
 それは、馬、でございましょうか。
 そう見えるだろうか、と吉能は振り返り馬を見て言った。
 はい、紛れもなく。
 と、あからさまに表情を柔和につくり直した巫女の丘人は言い、それは何でしょう、と馬の尻を優美な手振りで示す。吉能がそれは自分の部屋の玄関ドアだと説明すると、姫はその大きな瞳の奥に思考の色を一瞬きらめかせ、些細な相づちも打たずに無反応を通した。
 馬を外に残し、巫女に連れられ三重の層塔の戸を潜ると、中は地下じみた広い空洞になっており、古い木々の匂いが重みをもって沈殿していた。右手前の内壁から隙間が多く幅の狭い階段が上へと、そのまま壁に沿って螺旋状に昇っていき、光の届かない天井に呑み込まれている。
 さあ、お手を、と差し出された巫女の手のひらを取り、薄茶色の暗闇を螺旋階段をたよりに上がっていく。ここに入るのは初めてだ、子供は近づいてはいけないと釘を刺されていたから、と吉能は茫然とした面持でこぼすと、ここはお墓ですから、と巫女は静かに音を立てて笑う。邪な想念から逃れるためならば、近づかないことが何よりでしょう。これまでも、そして、これからも……
 光の粒がそろそろ絶えるかという時、ふと力強く、しかしゆったりと吉能の頭は巫女のささやかにうねる胸に抱きかかえられ、ウェディングドレスの裾が巫女の四肢にしな垂れかかった。天井のすぐ目の前に来ていたからであり、巫女はその反対の手で梁の間に嵌められた蓋天を押し上げた。
 そこは奇妙な空間だった。
 銃眼というには小さすぎる穴が四囲に隙間なく穿たれ、外から入ってくる無数のか細い光芒が直角に交わり、その中心ですべてを圧するほど大きな釣鐘が凝燃と佇んでいる。天井から地面まで届かんばかりのその存在感には目を見張るものがあるが、際立って異端の念を彷彿とさせるのは、その色合である。決して明るいとはいえないこの空間においてこの巨大な釣鐘は、見るも艶やかな翡翠の輝きを、今にも襲いかかってきそうな発散性の磁力でもって放ちつづけているのだった。
 吉能は、これが爆音の本源であると直感するとともに、自らの為すべきことをほとんど霊感のようにして悟った。この鐘を鳴らし、町の葬儀を直ちに止めなければならない、と。かつての丘人としての眠る血脈が密やかにそう囁くのだった。これを鳴らす方法は、と巫女に向けて尋ねる声とほぼ同時に、
 お兄ちゃん、と声がした。
 釣鐘を挟んだ向こう側に、すべての被服を脱ぎ捨てた巫女が立って吉能を見つめていた。幾千もの陽の光線と翡翠のあまりに無垢な輝きに照らされて、肢体の弧線に肌理のある暈が浮かび上がっている。
 わたしはこうしてここにいて、あなたもこうしてここにいる。それはわたしたちがこの世に産まれてしまった時から定められていたのかもしれません。誰に決められたのでもない、もちろんあの壁や《彼方》のせいでもないでしょう。わたしはあなたのことをまったく知らないし、あなたもそれは同じ。この世界のことなんてもっと知らない。――だからこそわたしたちは、今できることを、長い長い時間の流れのまさに今しかできないことを、するしかないのでしょうね。
 巫女は長く、しかし落ち着いてため息をつき、乳房と陰部を覆い隠していた腕を身体の横に垂れ、吉能に微笑みかけた。
 この塔は、町で生を終えたすべての人たちの上に立っています。鐘は、悲しみをもって鳴らされなければなりません。
 そう言い残すや否や、裸体の巫女は助走もなく走り出す。その背後で埃が舞い上がり、火花が散り星々が破裂するようにして交差する光同士が明滅し、かき乱れる。巫女は前傾し直線となって跳び、頭頂から釣鐘の下部に猛突する。
 圧倒的な事象が、爆発した。
 視界が消え、意識を失っていきながら、吉能は遠くに悲しみの反響を聞いた。


 2 祝祭の日


 今までのものとは甚だ性質の違う爆音に、葬儀屋は浅い眠りから引きずり出されるようにして目を覚ました。酸素が足りず窒息しかけてぼんやりとした頭が、仕事はどうした?仕事はどうなっている?と、自己とはまったく別なところからの声で繰り返し自問している。
 以前にも似たようなことがあったと、起き出しながら葬儀屋は思った。それは、今日と同じようにして爆音が町の空を揺らした日のことだった。その日の昼前、事務所のガラス窓の向こうにひとり、肌が極端に白い少年がうつむいて立っていた。まだ先代の、哲の父親が葬儀屋を切り盛りしていたころの話で、哲はまだ年少の児童だった。前日に大物俳優の葬儀の手配という大変な仕事を終え、その日は丸一日父親と遊んでもらう約束をしていたのだった。
 初め父親はその少年は誰かと待ち合わせをしているのだろうと思い、とくに何をするでもなかった。一週間ぶりに事務所内をさまざまな用具で隈なく掃除し、正午を過ぎてもなかなか起きてこない哲の部屋の電気をつけた。昨晩まで楽しみにしていたはずの息子は物音を立てても肩を揺さぶっても微動だにせず、うつ伏せになって顔を枕に沈めたまま堅く拳を握りしめていた。そこで父親はふと、こんな小さな子供が葬儀屋の前で待ち合わせる理由は何だろう、と思った。よく考えなくともそんな理由はないし、仮に大人であっても滅多にないだろうとふたたび事務所の階に向かうと、少年は依然としてまったく同じ場所に立ち、まったく同じ角度でうつむいていた。
 それが吉能だった。
 哲はその日、陽も暮れそうな夕方になってからやっと床を抜け出したのだったが、それはたんに寝坊といった個人的な問題ではなく、夢とうつつの間での激しい小競り合いにうなされていたからだった。当時はまだ五つで葬儀屋の見習いでもなかったのだが、今振り返ると、それが死と丘にまつわる人の終末を見届ける仕事をしなければいけないという責任からくるせめぎ合いだったと考えるとすんなり理解できる。爆音と吉能。丘と町。それらは哲にとって重大な何かを孕むように思われた。
 町は祝祭のムードに満ち溢れていた。朝方に突如鳴り響いた翡翠色の爆音は町の人々の気分を無差別に昂揚させ、壁に見下ろされる日常からの一時の脱出を掻き立てているようだった。吉能の門出の鐘声は、それを知らない人々にとっては盛大な祭囃子だった。中央通りはかつてないほどの大勢の人だかりで混雑し、あらゆる方角へと解放の華やいだ風を届けた。
 その日を境に、かれらは三人家族になった。
 吉能と哲は互いに同い年で、ほとんど口をきかない吉能と面倒事が苦手な哲、というふたりの性格は相性が良かった。ふたりともあまり喋る方ではなく、しかしながら会話がなくとも互いの意図や調子が手に取るようにしてわかる、さながらシャム双生児のようなところがあった。丘人の特徴をもつ吉能は、時折思いつめたふうにして自分の周りに囲いをつくるようなことがあったが、他の生徒と比べて何ら不都合なところはなく、好奇の眼に晒されることは度々あったがそうしたときはそれとなく哲が場をいなした。ふたりは揃って義務教育の九年間をスムーズに通り過ぎた。
 ある日、吉能は家のどこからか、縒れもなく真新しく見えるウェディングドレスを見つけ出し、葬儀屋の父親を困らせたことがあった。吉能はそれを大層気に入り、常に肌身離さずとまではいかないが、事あるごとにお守りとしてその手触りを愛した。吉能も吉能で、父親に何か複雑な事情があるのだということをその眼差しから感じ取ったのか、以後はその接触を隠れてするようになった。いつか哲が、何がそんなにお気に召したんだいと訊いたが、吉能は一瞬自分でも何が何だかわからないといった動揺を確かに見せ、ただただ曖昧に笑うだけだった。そしてその夜哲は、吉能が布団の上でそのウェディングドレスを踏み潰し、きわめて静かに、しかし鬼気迫るようにしてそれを犯しているのを偶然見てしまった。吉能は下半身を露出して膝立ちになり、鋭く勃起していた。ドレスの片方の袖がベッドの縁にだらりと投げ出されていた。哲にとって、それはとても印象的な光景だった。何故かははっきりとしないがしかし、吉能の自壊の一端をそこに垣間見てしまったと感じ、強烈な動悸に胸を襲われたのだった。吉能がその白さに何を見ているのか、どのような執着があって、どんな影響を与えるのか。哲は一晩眠らずに考え、翌日、事務所の奥のほとんど使われないままに置かれている箪笥の抽斗にそれを隠した。吉能と丘とを摑んで離さなくさせる忌まわしい鎖だと、そう思ったのだった。
 高校に入ると、しばしば吉能の体調に異変が見られるようになった。肌色は一層白みを帯び、以前に増して口数が減っていく吉能を哲は注意深く観察し、必要があればさりげなくサポートした。高校での生活が合っていないのだろうかとも思われ、授業の間頻繁にうとうとするようになった吉能のために、より詳細な内容にいたるまで丁寧にノートを取った。ある朝、とうとう吉能は学校に行きたくないとぐったりした様子で口にした。訳を問うと、遠すぎる、とだけぽつりと零してまたすぐに眠ってしまった。高校は北端の岬の先にあった。哲は薄々、吉能が丘から遠ざかるほどに体力を消耗してしまうことに気づき出していた。吉能は学校を休みつづけ、ひとつまたひとつと季節が巡った。やがて哲ひとりで高校の卒業を迎えるころになると、吉能の世界を蝕むヴェールは丘からそう距離のないかれの居場所である葬儀屋をも内側へと呑み込み始めていた。
 哲の卒業と吉能の宿替、そして父親の突然の死は同日の出来事だった。卒業証書を携え胸に造花をつけたまま帰宅した哲は、静まり返った平日の事務所で延々と鳴りつづけている電話を不審に思い、父親の帰りが遅いことも気になって電話を取った。聞き知らぬ男の声がかれに、父親が路面電車に轢かれ南に数区画にも渡って引き摺られたことを伝えた。運転手の不注意と過労からの居眠りが原因だった。
 父親の葬儀がかれの初仕事となった。しかしそれは葬儀といえるような形式的なものではなく、哲と吉能、たったふたりがその事実と向き合い消化するための儀式的な時間の経過を意味した。葬儀屋の父親には友人と呼べる他人はいなかった。哲は葬儀屋を引継いだ。
 たくさんの人が町で生まれ、さらにたくさんの人が町で死んでいった。町の時間はいたって変わりなく規則的に流れ、葬儀屋は丘へと数えきれないほどの棺を毎日のように流した。爆音は轟かず、数年に一度酷い大雨がささやかな洪水を起こし、人が死に、葬儀を繰り返し、葬儀屋と吉能を結ぶたよりない紐帯はますます細くなっていった。
 そうして、ふたたび爆音が鳴ったのだ。

 人々にとって爆音は天からの気まぐれな祝福の合図だったが、葬儀屋にとってそれは吉能を呼ぶ号砲、そして死の気配だった。朝方、数年振りに姿を見せた吉能は、やつれ、みるみる精気を失っていく段階のもう引き返すことのできない途上に立たされているふうに葬儀屋の眼には映っていた。
 事務所に降り、手近な椅子を引き寄せて座り、ウェディングドレスが仕舞われていた抽斗が開放しになっているのをぼんやりと眺め、思った。父は何故ウェディングドレスなんて持っていたのだろう。吉能は何故ウェディングドレスにあそこまで執着したのだろう。意味がなければ説明がつかないことのようにも思えたし、意味なんてものは最初から何もないといえばそうかもしれないとも思った。では、自分は何故丘へ向かうであろう吉能に、かれから隠していたウェディングドレスを着ていくよう半ば強引に勧めたのだろう。葬儀屋は混乱し、南を向いた。南を向いた? おれはどうして南を向いたりなんかしたんだ?
 風の唸るような重たい音がしたかと思うと、その音はふいにまとまった大波となって表のガラス窓を震動させるほどに大きくなった。慌てて立ち上がり通りに飛び出ると、大人も子供も皆涙を流して号泣しながら、けれどしっかりある一点を見つめて行進していた。葬儀屋という職業柄、そうした振舞いには見慣れていたが、それはあまりに異様な光景だった。まるで自由意志ではなく、人間の形をした人形が何者かに操られているようだった。それぞれの視線の向かう先が、他でもないあの錐の丘であることはわざわざ確認していくまでもなく明らかだった。かれらは南へ、南へと、死別の悲しみに耐えかねた忘我の生霊のごとく歩みをつづけていた。
 町がおかしくなってしまったのか、あるいは自分の方がおかしくなってしまったのか、狂乱の祭礼のただ中にあって葬儀屋はわけもわからず混乱した。通りは悲しみの坩堝と化している。ふらふらとひたすら南を目指す生霊たちに何度もぶつかられながら、己の肉体のみがこうして何事もなく自由に動かせることを不思議に思った。
 葬儀屋は手あたり次第に道行く人々に話しかけたが、その反応は支離滅裂さを極めていた。……わたしは終身刑になるだろう……人生はつらい、芝生でさえ簡単に取り戻せない……おい、活動を閉じろ!……汚いティータイムがここにあります……三十六時は五種類の力しか数えられません……美しいのか?……
 その時、生霊の群の上手の方からとみに地鳴りが届き始め、それがみるみる大きくなっていくにつれ何かを跳ねるような鈍い音、そして限界まで我慢した後の惨めな吐瀉といった水気のある音が後を追って来たかと思うと、通常あり得ないほどの速力で路面電車が行く先をふらつく人々を弾き散らしながら猛進してくる。葬儀屋は何を思ったか南へと全力で疾走し、横に追いついて来た列車の乗降手摺をかろうじて掴まえると、丘目掛けて爆走する速度にその身をまかせ、運ばれていった。


 3 二つの抒情的で素朴なるドア


 馬は無事に吉能を導けたことに心底安堵していた。そこに意味はなく、したがって目的や意思といったものもなかった。それは抜けるべくして抜け落ちる古い体毛のようなものであり、吉能を乗せ鐘楼まで送ることもその結果安堵していることも、ごくごく純粋なただの巡り合わせに過ぎなかった。そしてしかるべき行為を終えた馬は、そこで一度死んだ。吉能と巫女が建物の陰に見えなくなると、馬は途方に暮れるまでもなく自らの存在意義が消え失せていくのを感じた。
 ただし尻に嵌ったままのドアは違った。
 爆音。
 その時、層塔をぐるりと囲む照葉樹林の暗い陰から上裸の丘人たちがぬっと姿を現した。かれらは物言わず縦一列に並び、早足ぎみで層塔の階段を昇っていった。ほどなくして一行はふたたび地上に戻ってきて、馬を中心とした幅数十メートルの円を形成した。それは意図された行動というよりかは、豺狼の群が何かを警戒するような動きに似ていた。数人の丘人は飾りけのないひとつの棺桶と、そしてウェディングドレスの吉能を大事そうに抱えている。丘人たちは総じて無個性であり、乳首の露出で男女の区別ができるのみで皆変わりのない顔、同じ身形をしていた。突風が吹いて薪の中の小さな熾火が消されてしまうように、僅かな作用で音も立てずにふっと消えてしまいそうなほどかれらの身体や魂といったものの存在感は稀薄だった。
 その中のひとりの男が円陣を壊し、馬の元へと近づいていく。その歩みはしっかりとしているが、地面からほんの少し浮いた見えない面を滑り歩くようにも見える。
 こんにちは、とその丘人の代表は立ち止まって言う。
 一度死を迎えたばかりの馬はうまく頭を働かせず茫然と言葉を出せずにいると、代表はその気配を感じ取ったのかひとつ肯く。
 きみにふたつ、訊きたいことがある。答えてくれるかね。
 棺桶を抱えていた丘人のひとりが消失した。バランスが崩れ、棺桶の一方の端が砂利の上に落下し、中のものがごとりと移動する音が聞こえる。
 代表はよそ見をする馬には構わず、そのままつづける。
 まずひとつ、難しい方からにしよう。きみについての問いだ。
 隣りの丘人が棺桶を持ち直すと、今度は反対を支えていた方が元からそこになどいなかったかのように消えている。ごとり、と音がする。その奇妙なシーソー擬きは数秒おきに起こり、丘人の円は一歩、また一歩と狭まっていく。
 きみは、馬なのか。それとも人なのか。人だった馬なのか。そのどれでもないのか。どうかね。
 どうだろう、と馬は思う。人だった気もするし、最初から馬だったとしか考えられないような気もする。それはつまり、人でもあり馬でもあり、そのどちらでもないことを意味しているということだろうか。はたしてそれは何らかの実在を示すものなのだろうか。
 質問に沿って言うなら、と馬は悩んだ末に答える。そのどれでもない。
 わかった。了解はしかねるが、おおよその把握はした。ではもうひとつ、これは簡単だ。そのお尻のものは何だね?
 首を捻って後ろを振り返ると、馬はぎょっとして瞬きを繰り返した。ドアはやや黄ばんだクリーム色をしていて、馬の視界全部を一瞬にして覆ってしまったのだ。
 なんなんですかこれ! ねえ、これなんなんです? 眼が見えない!
 ドアに見える。頑丈で、一般的な形のドアだ、と代表はあらかじめ用意していたみたいに言った。
 ドア? ああそうか、と馬は思い出す。これはあの時のドアだ。けれどどうして嵌ったままになっているのだろう。馬は上下左右、加えて斜めにも大きく腰を揺らして振り落とそうと試みたがそのドアはびくともしなかった。身体の一部か、あるいは身体の一部のようなものとして、そこにあるのが必然だというような見事な嵌りっぷりだった。
 それは何だ?
 当惑する馬の鬣からうなじにかけて手を置き、代表はどすの利いた低い声で凄んだ。どうやっても抜けないことがわかると馬は半分諦めた心地で、ドア、とだけ答えた。
 連れていけ。
 代表は冷ややかに言った。しかし、すでに馬を取り囲んでいた丘人は棺桶と吉能を抱える四人だけを残して跡も形もなく消えてしまっていた。
 
 一行は丘の裏側へと下っていった。南方の壁に近づくにつれて植生が暗色へと変化していき、道という道が途切れると繁茂する羊歯を掻き分けて進んだ。ついに太陽が壁の向こうに完全に隠れてしまうと、樹木のそよめく音も聞こえてこず生物の蠢く気配すら感じ取れなくなる。誰ひとりとして口を開くことはなく、棺の中のぶつかる重い音と吉能の寝息だけがそれぞれの足音の合間に時折聞こえていた。
 緩やかな斜面が終わり開けた場所に出ると、まず棺桶を抱えるふたりが、それを察したのかそれを丁寧に地面に置き、瞬間消えた。つづけて吉能の脚を持つひとりが消え、もうひとりは吉能を馬の鞍上に横たえると、手を離さないうちに消失していた。
 こっちだ、と代表は言い、置かれた棺桶を引き継ぎ軽々と肩に担いで歩き出した。
 丘を支える台座のごとき短い崖をさらに下っていくと、触れられそうなほど接近した壁と向かい合った丘の岩壁に裂け目が開いていた。しばらくそこで、馬は代表にならってその縦に長い隙間に耳を澄ました。この世のものとは思えないほど淡く儚い、それでいてどこか懐かしさを含んだ空気の流れがそこにはあった。流れの端緒は壁、もっと正確には壁の《彼方》にあり、崖の斜めに走る断層を長い時間をかけてその流れが掘り進んだことで岩屋という深い洞穴が出来あがったのだった。岩はところどころが現在もなお砕けつづけており、鋭利な角々が丈夫な獣の心臓を生かす弁のように外から侵入するすべてを阻んでいた。
 棺桶を岩屋の手前に置くと、代表は《彼方》からの幻惑的な空気の流れを遡っていった。そうして、壁にそっと確かに手を触れる。それはドアではなく、ドアがあった。幻のように奇抜でおぼろげで、薄く汚れた素朴なドアであり、ドアではなかった。
 代表はちらりと馬を見た。馬もそうした。
 風は好きかね、と代表は言った。
 好きの指す意味がわからない馬は、ただ首を傾げるだけだ。
 ならば嫌いか。
 今度は別の方に首を傾げる。
 色はどうだい。
 空は。
 熱は。
 地は。
 心は。
 ……代表の肘から先がひとつまたひとつと色を失くしていき、空気の流れに煽られその形をじわりと拡散させていく。中指の突端が壁の厚みの中へと差し込まれ、にわかにドアではないドアのその輪郭を碧色の電流じみた光が瞬足に象り、そこにドアがあるということを証明して見せた。その時、馬の尻に嵌ったドアが鈍い音を立てて地面に落ちた。馬の尻の形をした穴が真ん中に空いていて、片方の把手は落下の衝撃で直角に圧し折れていた。それは壁のドアとほとんど同じで、違うのは大きな穴が空いていることと片方の把手が拉げていることだけだった。
 壁からもう見えない指先を引込めると、代表は岩屋へと踵を返す。空気か、あるいは代表か、それらはすでにひとつの流れとしてぼんやりと揺れているだけである。代表がふたたび担ぎ上げた棺桶は、もはや棺桶ではなく、かつて棺桶だったものでしかなかった。馬は自分の体を鼻先を向けて隈なく調べたがどこにも欠損はなく、筋肉が細かく伸縮し震える律動さえも鮮明に受け取った。背中では一定のリズムで膨れて萎む吉能の胸部を感じ取ることができた。

 

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