倉庫番


 大学を辞めることになり、大学と実家のちょうど中間あたりの町の古い木造アパートに部屋を借りた。そこはぱっとしない町だった。見慣れない私鉄が二線、町の周縁にそっと進入してはすぐさま交差し、そっと抜けていく。駅前には、何十年も以前の変に欲ばった開発計画の残滓が横たわっていて、テナント募集の看板があちらこちらに目につく。そんな町だ。山もなければ目立った川もない。海なんてそんな大そうで確たるものはもちろん見えず、起伏のない地面と鉄筋コンクリートの壁と平らな空がどこまでもつづいていた。ほんとうにどこまでも、それらはつづいているのだ。目にうつり込むすべてのものがのっぺりとしていて、狭いわりに濃度が稀薄でろくに密度が感じられない。どこまでも透明で善も悪もにおわない細菌だらけの世界に迷い込んでしまったみたいだった。頼りにできるものはただひとつ、自分だけだった。つまり、僕は初めての町に来たのだった。

 初めての町。
 そんな町に来てから数日のあいだ、僕はほとんど何も置かれていない小さな部屋のフローリングに一日中寝ころがって、煙草をちゃんと数えて五本吸い、赤玉スイートワインの一・八リットルパックをグラスにそそいで少しずつ減らしていた。常識的な範囲内でよくは眠れていたけれど、どうしても寝つけない夜には、六本めの煙草を吸いながら天井のざらざらを目で追いかけた(おかげで、毎日吸う煙草は五本でなく五、六本だと、初めて処方箋を受け取るために行った薬局でそう伝えるはめになり、しっかりとそこのデータベースに記録されてしまった。いささか癪だったけれどしかたがない。そういう自己閉鎖的なところの正確性、もっというと自分に嘘をつけない性質というのは、僕にとっては大事なことなのだ)。
 町の透明感はますますその度あいをつよくしていった。折にふれては散歩に出かけてみた。僕の知らない要素がごちゃごちゃに組み合わさった風景のなかをそぞろ歩きし、そのたびにどんな満足も目的も探りあてられず、また思い入れのないアパートへと帰った。物心ついた時からの特徴であり、このところますます硬化しつつある僕の内向的行動に、透明な新しい町はいっさい無関心無感動で通していた。
 気がつくとひと月が過ぎていた。久しぶりにカレンダーを見ると、そこに自分がいなかったのだ。

 散歩の途中、とある公園に行きあたった。定年退職をむかえた男女のたまり場である二面のテニスコートが全体の半分近くを占める、さほど大きくはないが感じのいい、落葉だらけの公園だった。苔まみれの湿ったベンチに腰をおろすと、テニスコートを除いて公園の敷地はすべて高木といっていい樹々の葉におおわれていることに気がついた。太い幹が、上に横にとあっちこっちに伸びて、空をふさぐ黒い円蓋をつくりあげている。
 見あげると、カラス、鳩、ハクセキレイ、スズメ、ムクドリ、川鵜、サギ、といったあらゆる種類の鳥類が飛んでやって来ては、緑色のなかをさほど興味もなさそうについばみ、ほかの鳥たちを牽制しては、飛び去っていく。姿は見えないが、ホゥ、ホホッ、ホホゥーという闇夜ゆずりの歌声も聞こえているから、どこかでフクロウもしかと鉤爪をひっかけているのだろう。ここに歩き入るずっと前から鳥の鳴き声がうるさく聞こえていたのだが、その正体はここの鳥たちだったのだ。葉擦れのざわざわという音がしては、僕の頭や肩に木の実やら折れた枝末やらがひっきりなしに落っこちてくる。しばらくおっかなびっくり頭上を眺めていると、ワイヤーみたいに細い葉やまん丸の葉、それら梢の集合体がたんなる不順なモザイクではなく、ひとつのれっきとした世界地図のように見えてくる。あそこからあそこまでがヨーロッパとアフリカで、西、中央アジア、そしてあれがオーストラリア、ソロモン諸島はどれだろう、というふうに。樹冠どうしは途切れなく葉でつながっているから見分けというのはつきにくいけれど、それは地球にしたって結局のところ同じことだ。事実、そこは鳥たちにとってひとつの世界なのだった。観賞のためによくホスピタルや家の門前に据えられている止まり木や巣箱などといった簡易器具は入り込む余地のない世界だ。そのような用意された足場なんてこの世界には存在しない。
 そこへ、一羽の圧倒的なトンビが襲来する。濃い葉群れにはばまれて視認できないが、その巨大な影がトンビだということはその豊満なかたちからよくわかる。すると、あの際立った甲高い声で、どこまでも澄みわたっていく鳴き声をあげるのだ。やっぱりトンビだ。その声は鋭利な突風のようにさわやかに湧きおこる。そして、樹上の鳥たちはにわかにざわつきだし、草木は無風のなかに揺れてさわさわとくぐもった声で囁く。僕の頭に毛虫が落ちてくる。
 ある明白な観点で完結している、人として生きるのとはまた別のややこしさ。
 そんな公園だ。

 ある日、通りかかった近くのスーパーの表の掲示にアルバイト募集があった。いつまでも空意地をはっていたところで生活は立ち行かなくなるし、そろそろ潮時だろうと無理やりに決め、その場で思いきってそこにある番号に電話をかけた。すると、
 ——じゃあ、あした来て、
 と相手が叫んだ。その声には店内の大きな喧噪が否応なくのっかっていた。僕もその喧噪を、開いたり閉まったりする自動ドアの隙間から聞いていた。それで、すぐ外にいることを電話口に伝えると、
 ——じゃあ今すぐ来て肉屋のまえ!
 と相手が叫び終わらないうちに通話が切断された。
 自動ドアをくぐると、まさに喧噪があった。
 店内の彼らはさながら戦闘あるいは移動中の兵士だった。誰ひとり腰に武器をさげていないのが不思議なくらいだ。そのかわりに彼らは全員エプロンを体の前に垂れさげていた。ある者はダンボールをひっさげて駆けまわり、さまざまな人間に対応し、大型の什器を押して転がし、エンドの配置模様を仔細に検分し、商品を徹底的に補充していた。視線の銃弾を避けつつ、彼らの兵站を妨害する意図はないことをこの身にしめしながらやっとのことで肉屋にまでたどりつくと、見るからに頭抜けて大柄な男がそこに立って銀色のピッチを操作していた。すると僕のポケットが振動で震えだした。僕は一瞬躊躇して引き返そうとしたけれど、結局しぶしぶながら話しかけることにした。
「さっき電話したものです」
 僕は男の視線に入り、震えつづけている携帯をわけもなく手でおさえながら言った。
「ああ(それは僕のすべてを掌握しつくしてしまった鋼鉄の一言だった)。忙しいんだ。すぐにやってほしいことがある。ついて来てくれ」

 そうしてあっけにとられたままやけに蒸し暑い通路を抜けて事務所までついていき、そこで屋上の鍵というものをわたされたのだった。それは驚くほど目方のない、今にも溶けて消えてしまいそうな鍵だった。彼は屋上までの経路と、僕のすべきことを一気にまくしたてると、そのまま立ち止まることなく売り場へと戻っていった。
 現在。
 僕のすべきことは、どうやら屋上の清掃らしかった。屋上には受水槽があり、明日の早朝その定期点検があるため、付近を清潔にしておきたいのだと彼は言っていた。でもとにかく今は忙しいし、掃除なんてやっている暇もやれる人もいないのだそうだ。そこにちょうど僕があらわれた、というわけである。
 もちろん、それは僕のすべきことでも何でもなかったのだけれど、僕はその初仕事を引き受けることにした。つまりは即決で面接もなく採用されたということだろうし、そうなると僕はもうこのスーパーを支える一人間であるのだ。もう手遅れだったと言い訳できなくもないが、現状、やらない理由はどこにもなかった。
 言われたとおりの通路をたどって裏口から外に出ると、外階段がぐねぐねと真上の壁を這っていた。ここを一番上まで昇っていけばいいのだろう。目の前はこの世の終わりみたいなブリキの吸い殻入れがぽつんと真ん中にあるだけの喫煙スペースで、フェンスの向うは雑然とした駐輪場が広がっていた。
 僕はひとまず煙草に火をつけ、フェンスに寄りかかって煙を肺に送り込む作業をだらだら繰り返した。今日中に片づければいいのだから、そう急ぐこともないだろう。煙は肺をみたし、それから徐々に全身へとなじんでいった。ぼんやりとフェンスの後ろを眺めていると、地図のような図形が目にうつったような気がし、よく見るとそれは放置自転車禁止区域を詳細にしめしたこの近辺の地図のようだった。駅前のほとんどの道は禁止されていて、区画の整理された範囲の外に出ると、ある道は赤く塗りつぶされ、ふと途切れ、また塗りつぶされていた。青い点線で囲まれた地点は暫定駐輪場として、第一から第三まで地図にしめされていた。
 そこで僕は不意に、とある流れをもったひとつづきの記憶のような何かが、頭の上のあたりに引っぱりだされようとしているのを感じた。僕はポケットのなかで中指を、小さな鍵のシリンダーにあてがう部分にそって這わせ、その何かをじっと待った。
 町。スーパー。兵士。受水槽。鍵。煙草の味。地図……
 ……倉庫。
 そう、倉庫だ。それがこの何かのキモなのだ。
 煙草の上方向にのびるひとすじのぼやけた煙にからまり混じりあって、それが触媒となることで、その何かは記憶としての形を取り戻していった。
 そう、そんなこともあったのだ。

       *


 もう五、六年も前のことになる。うんと久しい以前でもないけれど、かといってほんのちょっと前というわけでもない。ちょうど、固まりかけのまだまだ形状が不安定な紙粘土、といったような過去だ。

 そのころ僕はまだ高校生で、奇妙な倉庫番をすることになった。

       *


「脳に悪いことだけはいけないさ」

 僕のもとに掲示板愛護会倉庫の番の役目がまわってきて、この古ぼけた小屋を初めて訪れた時にイワタさんは僕に諭すように言った。
「おれの経験からするとね」とつづけた。「脳に悪いことに比べたら、ほかのことなんてとるに足らないよ」
「脳に悪いこと」
「そう。でもな、それはおまえさんの脳だけが知っている。脳だけにしかわからないのさ。だからいつも注意ぶかくしてないとだめだ。それはたちの悪い煤煙みたいに鼻や口から、もっとたちの悪いものなんかは脳に一直線、気づかぬうちにすっと入ってきちまう。恐ろしいもんだ」
倉庫番」と僕はぽつりとこぼした。
「ん?」
「脳に悪いことかもしれないな」
 イワタさんは目をまるくして僕を見た。そしてケタケタと乾いた声で笑い、黄色い歯なみをあらわにした。それで、臙脂の上衣の内から濃紺に金の縁の四角い箱と薄い緑色のライターをだして僕の前に置いた。中央上部に「CIGAR」と美麗な書体で印字されている。
「これをやる」
 僕はその箱を手にとって、軽く振り、匂いを嗅いだ。思わず歯噛みしたくなるような、アンバランスなやわらかさを含んだゆたかな匂いがした。箱をあけると未だ封は切られておらず、金色のアルミ箔はひとすじの折り目でたたまれていた。
「それで相殺すればいい。それは脳に良いものだからね」
「ありがとう」と僕は言った。
 小屋は年季の入った薬品貯蔵庫のごとくひんやりとしていて、空気はよどんで冷たかった。僕らが話しだしてから少しおくれて、小屋の戸を叩く新たな人物があった。
 新たな人物はコイトと名乗った。大通りに面する小さな鍼灸院で助手をしている、さっぱりとした雰囲気をまとう若い女性だった。つぶらな眼差しは微かにうるんでいて、まばたきをするたびに体全体が微妙に揺れる。ちなみに、イワタさんはその向いにある表具店の旦那とのことだった。彼は黒い顎ひげを生やした四十後半くらいの顔色のすぐれない男で、しょっちゅうこすり合わせる手は、青い血管とできものでごつごつと波打っていた。彼らはどうやら面識があるようで、それはもちろんお互いに仕事場が近所ということもあろうし、すぐそこの倉庫にかかわっているからでもあるようだった。
 僕は、先ほどイワタさんにもしたように、自己紹介をかねた挨拶をかいつまんでした。すると、あら、とコイトさんは気がついたふうに言った。
「高校には通っていないの?」
「いや、通ってます。川向うのところ」
 今がすでに暮れなずんだ平日の夕べであり、通常の学生はもうしばらく学校の敷地で活動している時刻だから不審にとらえたのだろう。僕はいつものように、自分の立場をあきらかにしなくてはならない。
「部活みたいなことは苦手なんです。ああいうところは常に笑いをとることを考えていないとやってけないから」
「部活、楽しいものよ」とコイトさんは言った。
「そう思います」
 僕はユーモアに欠けてるんです、と半ば自嘲してつづけると、イワタさんとコイトさんはわかるというように幾度か大様に肯くそぶりを見せ、頬をゆるめた。
「それは?」
 女助手がいくぶん訝しげな口調で、僕の手のなかにある煙草のボックスとライターを見すえて指を差した。僕が返答にもたもたしているのを見かねたのか、イワタさんは冗談っぽく眉をひそめると、
「そういう年頃だからね」
 と言った。
 僕もそれでいいという意味あいをふくめた目配せを、コイトさんにした。

 黒い人影が土手うえを横ぎっていくのが目に入って顔をあげると、それは川の上空をすましこんで滑空しているトンビだった。足下を見ていたから間違えたのだった。僕はたいして興味のそそられていなかった読みかけの慢性疾患特集雑誌を閉じ、手をはなしてアルミの貧素な机にほうった。僕は椅子の上に立っているのだ。ひとりでいる時には、椅子があるともっぱら座らずにまずその上に立つことにしている。どういうわけか、そうしていると気持ちが休まるのだった。脚の筋肉の調子しだいではすぐに降りてしまうこともあるけれど。ぐらつく椅子の重心に気をつかい、その場でゆっくりとしゃがんでから、片足ずつ地面に足の裏を下ろしていく。まだ長い三ミリ煙草の吸いさしをもみ消してから、小屋の外に出た。
「ほてる・リバーサイド」の荒れ散らかした玄関から、チェックアウトを済ませた直後らしい親子づれがとぼとぼと重たい足どりで出てきて、そのまま階段を昇り、川沿いの側道を歩き始めた。それぞれがそれぞれの沈黙をまとったままにおし黙っている。中間層世帯によく見られる特有の気だるげさを各人承知しきっているといった感じだった。水ぎわだったところがひとつとして見あたらない、そういう意味ではどこかつつましやかな聖者たちの行進といった趣きもある。だが、今の僕にとってそれはもうひとつつまらない光景だった。
 家々のあいだでは、電線技師の男が十数メートルある梯子をどうにか立てかけ、空中で器用に手先を動かしている。庭園と呼ぶべき洋風のよく手入れされた「ほてる・リバーサイド」の豪奢な庭からその作業を背の曲がった白髪の老人が見あげていて、その作業夫のすぐわきにある半バウムクーヘン形をした出窓はカーテンで閉め切られている。電信柱から延びている二列の電線には、螺旋状にくるまった一本のより細いアルミ線が寄りそい、飛んでふたつ先の電信柱までつづいている。その先は見えない。「ほてる・リバーサイド」の屋根が視線をさえぎっている。
 出だしに戻って今度は反対方面へとたどっていくと、この小屋までは電線のからみ合ってできる複雑な網めが達していない。掲示板愛護会倉庫は大型トラック二台ぶんを縦に重ねたくらいの大きさで、どろ池に半身をしずめている犀の胴のような屋根がのしかかっている。そのほど近くにかまえられたこの見張り小屋は、あぜ道沿いによく立っている農具小屋に見まがうほどの粗末なつくりで、倉庫の大きさの半分もない、いかにもといった掘立小屋の外見をしている。
 ぐるりを歩きまわる。
 サンダルが二足に濁った雨水のたまったじょうろ、そしてぐるぐる巻きにされた放水ホースが打ち棄てられている。石塀側の鉄板壁は全体的に錆びていてほとんど黒く、ぼやの発生を記録しつづける焼け跡のようでもある。ある角度から見ると前線を張る歩哨の詰所に、またある時にはある種の駆逐戦車における肥った戦闘室に見えなくもない。その焼けたような錆びきった壁面と、戸のある面のふたつに、曇ったガラスの小窓が外にあいている。
 掲示板愛護会の倉庫番。それが僕に初めてめぐってきた、町内会での役まわりだった。両親はいつの間にか町内会の一区で上の役員を務めていた。それで、部活にも何かしらの放課後活動サークルにも属していない僕は、最低限の社会的役目を果たしたらどうだとふたりに問われ、それはそうだと思った。父も母も僕にあれこれをとやかく言いつけることはないが、もっとも肝腎な要件、あるいはまったくどうでもいいことにかんしてだけは抜け目なく、断乎として譲歩することなく指図した。おかげで僕はいくらかアンバランスな精神体系をこの身に宿すことになったのだ。
 早くもその翌週、各委員のサイクルがひとまわりし、新たな人員配置が職務的速やかさでもって決定していた。
 掲示板愛護会の倉庫番。それが僕に言い渡された社会的な役目だった。
 僕は大いに首をひねった。掲示板愛護会とはいったい何ものなのか。まずはそこに引っかかりを覚える。そんな組織があるとは、二十年近い月日をここで過ごしていても知ることはなかった。そもそも掲示板というのは、つまり、あの、と僕は記憶域の活発な部分から遠く離れ、すぐそこの公園にたどりつく。公園の入口の端に、それをようやく見つけたような気がする。これか、と僕は人差し指を立てる。次いで、路地をぬって歩き、町角の市民センター前に意識が飛ぶ。二本め、中指を立てる。小商店のつらなるトタン屋根のアーケードに吸い込まれるようにして進入し、路面電車の線路を足がかりに直進、四両編成の車両のうち二両ぶんしか収まらない無人駅に到着する。はす向いに交番があり、周辺をざっと見まわす。市の広報板を実体として確かめる。僕は三本めに薬指を立てる。それから、小学校前。小指。
 なるほど、だいたいの目標をつかまえられたように思える。けれど残念ながら、それが錯覚だということに気づかざるを得ない。もしかりに、大目に見ることで、掲示板愛護会というその存在を「オーケー」と陽気に受け入れたとする。とたん、致命的な引っかかりが次から次へとあらわれてくる。どういった理由で町内会が掲示板愛護会を包括しているのか、掲示板愛護会に拠点的倉庫が必要なのか、はたしてその倉庫に番人の口を設ける必要はあるのか、必要、必要…………

「必要さ」
 自信を感じさせる声音で、僕の問いかけにイワタさんはサムズアップしつつ答えた。
 別日、僕にたいする種々の説明会というていで、われわれは小屋に集まった。イワタさんは両手を激しくこすり合わせ、椅子をがたがたといわせた。
掲示板のある場所、わかるか?」
「公園の前、それから人通りのあるところ、それから……あの、公共物の近くとか」
「おおむね正解だ」彼はぱんと一度、勢いづけて手をはたいた。「それで、人通りのあるところ、ってのは具体的にどういうところだ」
「そのままです。人が多く通るところ」
「半分だ」
 始終口元にうすく笑みを浮かべていたコイトさんも、そうね、と控えめに同意した。
「ようは、人通りが多いのはどういう仕組みかってことさ。それは、まあもう言っちまうが、人びとが通らなくちゃならないところ、というわけだな。車が何台もすれ違えるほど広いとか、風の通りがいいとか、日のめっぽうよく当たるとか、そんなことは関係がない」
 僕はいまひとつピンとこなかった。「通らなくちゃならない」
「そうだ。ある人間が道から道へと移動していく上で、ほとんど必ず通らなくちゃならない箇所。視界におさめずにはいられない空間。どんな生活圏にも、それがある。人の通いなれた道、施設、広場。その付近に掲示板は立てられる」
 でも、と僕は反発する。
「どれも頻繁につかわれているようには見えないんですが」
「たいした問題じゃない。わっとたいへんに利用されようが、まったく見向きもされずにあろうが、それは掲示板そのものにとっては屁でもない。まあそれはその倉庫とは関係のないことだがね」
 どうにも、その言葉はこの四十男がひとかどの人物であるという予想を立たせるのにあまりあるものだと思われた。何を言えているわけでもない、しかしほんとうのことを言い当てているような、ひどくあいまいだが世慣れの感触のある意見であるような気がした。
「話を戻すが、倉庫番は必要だ。というのも、倉庫が必要だからだ。なぜだかわかるか?」
 彼はそれこそためすような態度で僕を睨んだ。ただし、口の端は軽く上に引きあげられたままだった。
 僕は考え、そして答えた。
「倉庫の中味が必要?」
「そうだ。わかるじゃないか」
 そう言い、イワタさんは満足げに僕の太ももをはじいた。
「でも」と僕は外の倉庫を指で示して訊いた。「番を置くまでして守る価値のあるものが、その倉庫には入っているとは思えない。何が入ってるんです? それに、僕はここに週二日くればそれでいい。倉庫番はひとり、僕です。これはいったい」
「それは、おれたちが知る必要のないことだね。おまえさんは決められた日時、時刻にここを守る。ほかのどんな仕事ともちっとも違わない。そうだろう?」
 彼は唐突に立ちあがった。コイトさんも同様にして、首を縦に振った。
「もうひとつ」
「何だ」
「イワタさんは」そこで僕は少し言葉に詰まり、つけくわえた。「コイトさんも、掲示板愛護会なんですか」
 ふたりは顔を見合わせ、困った感じで、何をいまさらというふうに言った。
「もちろん。そしておまえもそうさ。みんな会員なんだ」

       *

 近隣のどこかから拍子木のうつけた調子が聞こえてくる時分時、その感動的な男はふたたびやって来た。
「きみ、いくつですか?」と男は言った。
「十六」と僕は答えた。
 なるほど、と男は肯き、きょろきょろと屋内を見渡した。僕は椅子から降り、机の手箱から煙草とライターを取りだした。二脚しかないパイプ椅子のもう一方を男のために開いた。
「ありがとうございます」と男は言った。
 男は先週も手ぶらでこの小屋を、この曜日のこの時間にのこのこと訪れた。僕にしてはもう、いわば馴じみの顔だった。名前は何というのかは知らない。これまたほんとうかどうかは知らないが、川向うの森林公園の裏通りにある、おちぶれた洋品店のあわれな主人だということは教えてくれた。顔や腕など肌はつややかでいたって健康、脚の筋肉はしっくりとくる賢いねじまわしみたいにすらりと尖っている。蛍光色のトレーニングウェアにランニングシューズという軽い出で立ちは今日も変わらず、年齢不詳である。先週気になって訊ねたところ、
「じつに感動的な年齢です」
 と、わけのわからないことを抜かされはぐらかされてしまった。
 かんかんかんかんかん、と拍子木が時をひとつずつ刻んでいる。
 洋品店主人の男は横たえられ積みかさなったカラーボックスのそばにパイプ椅子を滑らせ、座り込んだ。ボックスのなかには古い雑誌の大量のナンバーが無造作に差し込まれている。実用、ホビー、文学等色とりどりのナンバーに雑じって、各地で撮影された暗渠の白黒写真がただひたすら並んでいるものや、「ニル・アドミラリ」と題された商業誌かどうかもあやしい人を喰ったような装丁のもの、「アジれ!」というあらゆる鋭角的政治思想がごったまぜになった雑誌のようなぼろい何か、などがあちこちにひそんでいるため、混沌に輪をかけている。男はそれらを、何か思い出深いものを愛撫するような感じで隅から隅へと眺めていた。つまりそれは喪ったものにたいする目だった。
 僕は気を取り直して同じように座り、両脚を投げだしてふくらはぎの筋肉をのばし、もものうらを腕の力で揉みほぐした。風はなく、昼から夜へとかけて虫たちや木々がひそかに変態する気配が聞こえていた。それらは成長の気配だった。たたずみしなだれている草や木々はその停滞をよそおっている頑丈な根もとをあざとく伸長させ、あらゆる動物は獲物をとらえ腐敗した有機物の底の巣にもちかえっているのだ。
「すぐそこのポンプ所、見ました?」
「ポンプ所?」
「ええ。ほら、ちょうどここから川の向う、ここからは傾斜があって見えませんが、浄水センターがあるでしょう」
 男は薄くてたよりない壁を見透かすようにして裏の川辺の公園のほうを見やった。
「それでこちらがわにも、公園の敷地内に雨水排水の公共下水道用ポンプ所があるんですよ。株式会社K電産、ってプレートが左下の隅にあります。所、といっても小さな倉庫や納戸みたいなものですが」
「へえ」
「帰りにでも見物するといいですがね、それはもう、ものの見事にぶっこわれてるんですよ。大口径の徹甲弾でぶちぬかれたみたいにです。わたしの勝手な予感で無責任ではありますが、あれはね、夜更けの釣り人のしわざです。間違いない。わたしの予感はどうしてか当たるんです」
 すぐそこの倉庫の、裏というよりも倉庫それじたいが厚みのある境界となって、その反対の土地には埃っぽい運動場と滑り台、それに水飲み場のある公園が横たわっている。さらにその向うには大きな川が護岸工事のなされた土手のあいだを音もなく流れている。その川幅はゆうに五十メートルはある。公園の南がわ入口の手前には細い板を横に釘でとめただけのペンキの剥げた粗末な掲示板が立っている。たぶんひとつとして掲示物はない。剥がし忘れたまま粘着力をうしなったガムテープや取り忘れの画鋲なんかはかろうじてあるかもしれないが、掲示物とはいえない。
 ポンプ所、と僕は思いだそうとして首を少し傾ける。公園内の運動場から川の側道にかけて傾斜した草むらがあり、湾からの潮風をうけて徹底的に錆びついた舵に似たハンドルのような鉄器具が、傾斜の裾の地面に突き刺さっているのは知っている。おそらく男の言うポンプ所とは、それとそのすぐ隣りにある倉庫や納屋のようなものとを指しているのだろうと僕は結論づけた。
「でもそのポンプ所っていうのは水を綺麗にして川に流すためのものですよね」
「そうでしょうね」
「釣り人は川の水が汚れるのを望むんですか」
「不思議でしょう?」と言って男は愉快そうに唇を舐めた。そしてうつむき加減に首を振った。
 にわかにつやを帯びだした男の下唇が気味の悪いものに思われて、僕は顔をしかめ、煙草の箱を拳の関節で小刻みに叩き内容物を震わせることで気をまぎらせた。この洋品店の主人の男はどうしてこの小屋を訪問しに来るのだろう、と今更のように急に気づき、男の身にまとっているまぶしい蛍光色がより異様なものとして存在し始めた。これからも、この男は毎週来るのだろうか。いや、この倉庫番のための小屋を決まった時間に訪れるのが、この男の果たすべき義務なのかもしれない、とふと僕は思った。そう思いだすと、その義務という言葉は恐るべき俊敏な身のこなしで僕の脳髄にいたる毛細管じみた道を駆けあがってきた。
「どうしてそんな話を自分にするんだ、とでも言いたそうな顔をしていますね」
「どうしてそう思うんです?」
 不意に拍子木の音が止んだ。ぬっとしのび入ってくるように、夜の沈黙がわれわれの意識上にあらわれた。
「ただのありふれた世間話、と聞いて納得してもらえそうにもありませんからね。きみはそういうところだけは頑固そうです」
 僕は何も答えなかった。男は僕の神経質な手の動きをちらと目で牽制した。それで僕は手を止めた。恥ずかしさに、顔に血が昇って来るのがはっきりとわかった。すると男はうって変わって、やって来た時のような健康的で穏やか表情に戻り、言った。
「それはね、感動的だったからですよ」

       *

 側道の手すりに付着した潮臭い砂をはらい、そこに腹這いになるようにして肘をつく。コイトさんを待っていた。向う岸の護岸、矩形の凹凸がおりなすコンクリートの補強と等間隔にはめこまれた排水管から視線をあげ、家々のなかに浄水センターを探すと、それは一目で見分ることができる。青緑色の貧相なメッシュフェンスに囲まれて、見るからに内向的な性格の薄汚れた建物、吹付タイルの白いモルタル壁が松の樹々の合い間にある。公共の施設とはいってもその規模は公立小学校の体育館ほどのものだ。それは同時にこの町の規模をも伝えている。陽の光にさからうように僕は川の下へ向けて唾を吐いた。すでに僕からはなれ外部となったその水っぽい液体はこちらの護岸をバウンドし、二段に分かれてべとりと張りつき、すぐ干乾びて黒いしみになった。
 自然と意識は、先に確認したばかりのポンプ所のようすを思い返していた。あの男の言ったとおり、規制テープで区切られた内で、業務用冷蔵庫にそっくりな鋼鉄の箱の前面が、割れた卵の殻のような形に破られていた。回収されずに散らばったままの鋭利な破片が運動場からはみでた礫とゆり混ざって、それは確かに何者かに壊されたのだという推測をその場に固定していた。
 時に完膚なきまでの破壊は人を感動させる性質をもつことがあるけれども、この場合は僕にはそうは思えなかった。僕は目の前の破壊にまったく正反対の感情をもったのだ。これは何だか猥せつだ。猥せつ。僕は、僕が思いつきうるもののなかでもっとも下等な感情を破壊の内情に、そして自らの肉体内部に視取った。この目で直に見たことのない、女の性器。まんこだ、と僕は何故か思った。見たことがないからこそ、その形状と象徴とが不自然にうずまき、目の前に際立ってしまうのかもしれない。誰もいないそこでしばらくのあいだ注視していると、また別な解釈をも感じ取った。これは子供のいやらしい喧嘩において無邪気に行なわれる宣戦布告のようだ、と。その考えは、僕に自分が倉庫番であることを思いださせ、そのいやらしい破壊を、否応なく僕の守るべきあの倉庫に重ねあわせた。これはいけない、という電流のごとき感覚が、僕が自覚するよりもひと足先に僕の体をへめぐった。
 僕は煙草に火をつけようとし、すさまじく吹き流れる川の突風にしんそこ苦戦した。鳩のつがい、それも真っ黒な鳩と真っ白な鳩とが、僕より風下の手すりにとまって水けをはらうがごとく身震いした。それはとても純粋なできごとのように思われた。荒れはてた花壇に繁茂している匂いの強くひょろながい雑草の葉先が僕のふくらはぎをズボンの布地ごしに往復するのをうざったくやり過ごし、やっとのことで成功すると、油断してライターを取り落としてしまった。それは護岸の凹凸の抵抗をうけながら跳ね、護岸下の岸辺のコンクリートに激突し乾いた音をたてた。置き去られた釣り人のつかうような汚れきったクーラーボックスの横にころがって、そのまま無頓着に静止する。いわく言いがたいいやな虚脱感にうちひしがれる。荒れた花壇を縁取るレンガをヒキガエルが跳びこえてきて、敷石道の端っこに喉元をひくひくと震わせていた。その鈍感そうでそのじつ狡猾などす黒い視野角には、はっきりと僕の前のめった間抜けな姿おさまっている。ひくひくひく……
 待ったかな、という女の声に振り返ると、下の公園からつづく丸太をつんだ階段をコイトさんが上がってきていた。カーキ色のオールインワンを身にまとい、清潔な小麦色の髪をひっつめに堅く結っていた。僕は髪をゆらして首を振った。コイトさんは僕のくわえている煙草を一瞥し、やや顔をしかめた。僕は恥ずかしくなって顔をうなだれた。
「何を見ていたの?」
 何も、と僕は言いかけて、紅潮しかけた頬を彼女から隠すために視線を川のほうへと戻した。そして、川、と答えた。澱んだ川面にははしけの側面のような白い鉄板が半分浸っていて、その背面で三匹のボラがゆったりと尾びれを動かしていた。
「僕の苗字、川って入ってるじゃないですか」
 僕はふとかねてから感じていたことを思いだし、言葉をつなごうと試みることにした。
「そうね」
「こうして川を見ていると、みんなにはこの川がどう見えているんだろうって」
「どういうこと?」
「みんなも僕が見ているままの姿で、この川を見てるんだろうか、ってことです。この川はずっとここを、ひとつの川として流れつづけている。誰の心にも。向う岸から見ても。空から見ても。でも、だからこそ、ほんとうに同じ川を見てるんだろうかって」
「それが不安なの?」
「不安というわけではないと思う。もっとこう、疑問っていうか、疑念というか」
「苗字に川が入っているからこその疑念というわけかな」
「というより、僕が親のふたりにたいしてそう感じているから。もちろん、ふたりとも同じ苗字だから」
 いつしかコイトさんも僕の隣りで手すりに肘をついて川を眺めていた。僕は煙草を地面にそっと落とし、靴のうらで踏み消した。
「川、濁りすぎててほとんど何も見えないね」
 僕は肯いた。
「何もうつってないね」
 また、僕は肯いた。
 学校を終え、荷物を家に置いてきた直後らしい子供たちのさわがしい声が公園の入口から聞こえていた。すっげえ青いダンゴムシがいる! きたねえ! とひとりが大げさにはしゃいで、そこに集団が群がるのが見なくてもわかった。
 行こうか、とコイトさんは言った。そして僕たちは川上へと道を歩きだした。
 午後の放射的な太陽と僕とコイトさんとを隔てている川の宙空には湿っぽく暗い薄もやが広がっていた。道すがら、僕は彼女に掲示板愛護会に入っているわけを訊ねた。それは初対面の時から気になっていたことだった。どうして若い女性、それもおそらく有能だし気の利くであろうあなたのような女性が、という意地の悪い疑惑も言葉のはしにひそませて。なぜ? と彼女は前を見つめたままこぼし、ふたたび、なぜ? と今度は僕に向って言った。その反応はどこか病的とも受け取れるような感じだった。質問の意図を理解しているようで、ほんとうは理解していないようにも、理解したうえで自分には理解できないと諦めているようにも見えた。僕は黙って肯いた。
「じゃあ、あなたはなぜなの?」と彼女は逆に質問した。
「僕は、親に言われて」
「それで納得はしているのかしら」
 僕は少し考えてから力なく同意した。社会的役目、と僕は思った。いや、僕は納得しているのだろうか? そもそも、僕はこれで、何もしていないこの状態で、きちんとした紙上の数に含まれた掲示板愛護会員であるのか?
「でもね、それではなぜという問いには答えられていないと思うな。あなたは親に言われて倉庫番をやることになった。それはあなたの言うなぜに充分回答できているのかな」
 彼女が言わんとしているところはよくわかった。けれど僕の訊いたこと、その核心の部分をうまくはぐらかされているようでもあった。コイトさんは大きな一歩を踏みだし風を切り、わたしもそんなものだよ、といたずらっぽい微笑を浮かべて言った。

 その後は黙って川上へとずんずん歩くコイトさんについていくと、丘の麓にある市民病院に着いた。丘うえは住宅地開発されたばかりで奇妙な静けさに包まれている。病院の管理棟に足を踏み入れたとたん、フリース材のような向心性のやわらかな匂いにむかえられた。管理棟は画一的な近辺のの風景とは一線を画しているゴシック教会の尖塔のような外見で、しかしながらいくらかくすんだ白色の外壁は病院の本棟にうまくなじんでいた。コイトさんは玄関を入るとすぐ右に折れ、よく磨かれた廊下を迷うことなく進んでいった。階段わきのスペースにはここの市街と思われる、簡素だが要を得た数千縮尺のジオラマがガラスケースにおさめられている。
「会議室B」と標示された木製の開き戸を入ると、イワタさんと、見覚えのない恰幅のいい大男のふたりが、差向いに談笑しているところだった。大男は二メートルに届きそうなほど大柄な体格に灰褐色のワイシャツのボタンを首元までぴっちりとはめている。ふたりは僕たちに気がつくと手で合図を送って寄こし、近くの席に招いた。
「息子さんを合気道教室に入れたらしいよ。けっこうなことだね」とイワタさんが大男のほうを気にかけながら話を振ってきた。
合気道? よく知らない」
 コイトさんはそう軽くあしらい、僕にイワタさんの横の席をしめして自分は先に座った。
「あっちの浄水センターの隣りに新しくできたんでね、その話をしたらどうも興味をもったらしいんだな。おれもよくはわかってないんだが、イメージとしては、体術、護身、思想的、さしずめ、精神的な暴力、といったところかな。なるほどなかなかに面白そうだなと思ったわけなんだよ」
「なんだか物騒な話ですね。暴力なんて」
「いやいやコイトさん」大男は太い首から頭にかけてを大きく振った。「暴力はかかせないよ。まず体が弱いとどうにもならないからな。とはいったものの、精神的な、だからね。沈黙の暴力とでもいうかな」
 コイトさんはやれやれというぐあいにうつむいた。四人でいるには、この会議室は広々としすぎていた。部屋は空気の抜けきった宇宙船内のように静かだった。足音も小鳥のさえずりさえ聞こえてはこない。窓も換気口も見あたらなかった。
「ハリ治療だってそうだろう、コイトさん? ハリ何本もスッとあちこちにさしただけで、けったいな病状がすっかり癒えちゃうもんかね。あれもようは精神の治癒というのじゃあないか?」
「あらら」と言って鍼灸院助手の彼女は気を取り直した。「不勉強ね。確かにそういう側面がないとはいえないけれど、鍼灸は血行を良くして自然治癒力を高めるんです。ニセモノのハリとほんもののハリを使った比較実験があってね、効果が科学的に実証されてもいます」
「へえ、そうなの」
「それに、先生のいう精神って言葉、おおまかにすぎません? わたしが思うに、精神は脳だけじゃなくもっと広く身体ぜんたいに分散しているのだと思います。からだが憶えている、というように」
「脳は大事だよ」とイワタさんが口をはさんで取りなした。
「それはそうよ。ただそれだけじゃないって話」
「ウム」
 僕は突然の訪問と突飛な会話についていけず手持ち無沙汰で、ポケットのなかにある煙草の箱を、まるで既習内容の演習問題を解くための退屈な計算をするように、角ばった輪郭にそって指でたどっていた。間もなく、ふわふわと定まらずに進行していた会話が止み、視線の網が僕のもとにからみつくのがわかった。
「この子が?」と大男が重そうな尻をあげ座りなおして体勢をおこし、僕を見て言った。
「そうです。新戦力ですよ」
 整髪剤のむっと匂い立つ髪を上になであげ、隣りのイワタさんは僕の肩を強くつかんだ。そんな彼にコイトさんは熱に浮かされた病人がする、とろんと垂れているが真っすぐな目つきを向けていた。
「名前は」
 僕は名乗った。大男はあたかもすでに知っているというような感じで肯いた。僕の両親が町内会で長年のあいだ幹部をしていることが関係しているのかもしれない、とふと思い浮かんだ。
「おれを初め見てどう思った」
「え?」
「第一印象だよ。言ってみな」
 僕は素直に、大男、と答えた。すると大男はむせかえるくらい激しく笑って、年輪のきれいに残っている木の机を何度も叩いた。他のふたりも親しげに鼻息をもらした。
「いや、いいんだ……うん、大男ね。はいはい。じゃあ、大男さんって呼んでよ。いや構わない、おれは確かに大男だからね」と大男さんはひきつる声で言った。
「きみはぼけっとしているようで、どうも違うな。何を考えているのかがわかりづらい。かといってその時の気分が顔に出ないというわけでもない。面白いね。まあきみとしては面白くないだろうが」
「目立ったこともしてないのに、ちょっと恐いね、とかよくまわりでコソコソ言われるだろ?」とイワタさんが言った。
 僕は何も言わず肯定の意をしめした。すると急に、ぬるくやさしさのこもった眼差しが集まった。子供を見まもる目だ、と思ったが、そのとおりで僕はまだ学生の子供だった。庇護の対象であり、より高次の問題においては半ば相手にされない、まさにそのままの子供だった。子供はとりわけ全体的な存在だ。子供は子供たちであることを不透明で全体的なコロイド溶液でできた全体空間のなかで要請され、大人は個人であることを巨きな確実な社会に要請されるのだ。不意に、僕のまわりには大人が三人いた。僕は囲まれていた。
 その時、地底からというべきか、天空からというべきか、バルブのゆるみきった蛇口からポタポタ水が漏れだすように、よからぬ傾向のその前ぶれが湧出しだすのが皮膚の最表面に感じられた。自分にはとりとめもないと思われることを知覚する、何故かそれだけで心臓がどくんと跳ねあがり、これから何らかの罰を受けなければならないという後ろ向きな気持ちになってしまう、あの感覚。憂いをおびた焦燥感のような感覚。精神と肉体とがどこか遠い鉄の管理室から遠隔操作されていて、僕は、順序において、構造において、奇妙ながんじがらめに遭ってしまう。あの感覚。
 この部屋は静かすぎる、しだいにそのことだけに意識が縛りつけられていく。そしてそれはあの感覚というオオカミの群れに気が遠くなるほどじわじわと包囲されていく。衣擦れの音さえも聞こえない。ここはオオカミたちの支配する深い森のほんものの内部なのだ。森の海ごとおそろしく丸い月が音を喰う、月の雫を葉先にしめらせた草木が音を喰う、犬歯を隠した尖った口をきっと結んだオオカミが音を喰う。
 何も、ない。
 何か、何でもいいから、何か音を聞きたい、と切望せずにはいられない。こんな苦しくてつらい発作、その要因が僕の内側あるいは外側のどちらにあるのかもわからない突発的な発作、こんなもので不確実だがちゃんと機能していた聴覚を一瞬間のうちに失いつつあるのはいやだ。この不具は一時的なものだと明確に理解しているのもなおさら悪い。脳、精神、肉体、おまえらはどこにいるんだ? おまえらはおれの味方なのか? 返事ができないのか? 味方じゃないのか?
 大男が音を発した。
閑話休題ね」
 それで僕の意識はぐっと握りしめていた拳の血管の脈動へと舞いもどり、末端から中枢部へとアメンボが水面を滑るように浸透していった。しかしそれは一時的な回復なのだった。席を立っていた僕の意識が、もとの席に座りなおしただけなのだった。
「まあつまり、そろそろわれわれも事を起こそうよって話だね。事情はおいおい伝えるとして、もう知ってるかもしれないけどね、情勢はにわかに差し迫っているようなの。だからね、われわれもそろそろ動かなきゃならない」
 大男さんはイワタさんとコイトさんの曇った表情を順に眺め、最後に僕を睨むように見た。僕は何となく姿勢をただし、話のつづきを待った。
「そうか」とイワタさんが顎をなでて言った。「ポンプ所のあれ、そういうことだったのか」
「まさか。そうなの?」
 コイトさんが疑わしげに、のけぞって腕を背後で組んでいる大男さんに質問を投げた。彼はじっとしたまま何も言わず、急に敏捷になって体を起こした。アルミの椅子が軋り不愉快な音を立てた。
「違うかもしれないね。証拠はこれっぽっちも見あたらないし。でも、見込みどおりじゃないともいえない。雷が落ちた、あれは神さまのなさったことだ、などととんだ悠長なことをぬかす暇もない」
 彼はもの憂げに無地のネクタイを首からはずし、丁寧にたたんで机に置いた。
「ぶっ壊されたものがこちらがわだったということ、われわれがそれをどう判断し、どう処理するか、ということ。そういうことじゃないかな、結局のところね」
 ようするにこういうことなのだった。僕が従事する倉庫番小屋うら手の公園にあるポンプ所の破壊は、たんなる結果的事象ではなく、何者かがこちらへ向け策略しひとつの目的をもって行なわれた先制攻撃だと。それはおそらく、川の向うのある勢力による仕業だと。そしてそのある勢力も、われわれと同じ町内会に属しているということ。次々と大人たちによってなされた一連の会話から僕に汲み取ることができた情報はやっとその程度だった。ものものしい単語とは裏腹に、何とも間の抜けた話だと僕は思った。
 大男さんの話を聞き終わるや否や、イワタさんはいつもとうって変わった真剣な身振りと面構えで立ちあがった。はたから見るその姿は、使命感に駆られた忠犬のようでもあり、悲劇的な幕切れを予感するうつろな騎士のようでもあった。その時、掃除夫らしき男がドアをノックして入ってきて、大男さんにいますぐ来るように伝言した。彼は了解して、ふたたびよれたネクタイを結びなおした。
 イワタさんは言葉なく会議室を後にした。その横を長年寄りそう妻のような恰好でコイトさんがつき従って出て行った。僕はもうすっかりとあの感覚をどこかに忘れ、あっけにとられていた。この場で、何かが起こり、何かが始まったのだ、ということはわかったが、かなめのその何か、が僕の認識から完全に欠落していて、事態がうまいぐあいに呑み込めずにいた。
 すると、すでに身支度をととのえた大男さんが僕のすぐ横に立っていて、僕のことをあの眼差しで高くから見下ろしていた。
「きみはいつものとおり、決められた時間に、あの小屋で倉庫番をしてくれればいい。それがきみの役目というものだからね」
「役に立つのでしょうか」
 僕は混乱し、それだけを返した。
「役に立つとも。それをきみがやるんだよ」
 先ほどのくたびれた掃除夫が今度はノックせずに押し入ってきて、先生、急いでください! とすがりつくように大男さんをせっついた。僕はここが市民病院の管理棟だということを思いだし、何か急を要する事故が院内で発生したのかもしれないと懸念した。しかし大男さんははいはいと軽くあしらって慌てふためいている掃除夫を追いやり、ふっと微笑するとぞっとするほどのどかな声で言った。
「それにしたって、コイトのやつ、イワタのどこがそんなにいいんだろうねえ。おれにはまったく理解しかねるよ、なあ?」

       *

 今日も、僕は倉庫番の役目をこなしていた。
 肥った若い男が公園の玉砂利を蹴ってリフティングの練習をしているのを椅子の上に立ち小さな窓越しに眺めていると、薄くはりつめた雲の透き間から午後の光が射し込んできていた。青年は、ボールが地面に落ちてしまっては、すぐに足の甲とうらを小気味よくあやつってふたたびボールを宙に放り上げ、不器用に体を揺らした。真っ白のTシャツに黒の半ズボンという恰好でいくぶん寒々しかったが、青年は一生懸命黄ばんだボールを何度も蹴り上げつづけていた。こりずに深く熱中するその姿ははっきりいって滑稽なものだったけれど、目を離せない美点の気配をもそこに発見せずにはいられなかった。だから僕は青年からしばらく目を離せずにいるのだ。日常的にスポーツに取り組んでいるようにも見えないし、青年の過剰ともいえる巨躯とリフティングという行為とをスムーズに結びつけることはとうてい不可能なように思えた。しかし青年はリフティングをして、おそらくは多量の汗を腋の下や厚い臀部に垂れ流しているはずだ。それはとても重要な手がかりなのかもしれないと思った。
 椅子から降りて外に出ると、青年はほとんどない荷物をボールとともに電動自転車のかごに押し込んで、入口のポールをよけ走り去っていくところだった。どういうわけか僕は、またここに来てその体でリフティングをしてほしい、それを自分に見せてほしい、と一心に願っていた。それは祈りにも似た感情のゆらぎで、心地よくもあり、ほとんど不可解だった。

 倉庫は繰り返される日々と同様に、何ごともなくそこにひっそりとたたずんでいた。わざわざそれを見ようと意気込まないと晴れない煙の魔法がかかっているかのように、そこにあった。
 僕はふと思い立ち、倉庫に向って歩きだした。掲示板愛護会の倉庫。必要とされる何かがおさめられている倉庫。倉庫は人の背丈ほどのフェンスに囲まれている。ぼろぼろに錆びたトタン板や割れたコンクリートの空洞ブロックがそのまわりに無造作に打ち棄てられ、散らばっている。フェンスには日陰の植物がしぶとくからみ巻きついている。鉄条網などの妨害もなく、そこはいともたやすく乗り越えていくことができた。水分をたっぷりと含んだ地面に飛び降りると、ほんの数ミリだけ体が沈む感触があった。かさかさと、見えない生物が音を立てて僕から逃げていく。
 ほど近くから倉庫を見あげると、忽然と再出現したそれは、壮麗で立派な夏祭りの山車を仕舞っておくための建物のようにも見えた。めったに開け放たれることのない独特の淋しげな雰囲気が、二重にきつくかけられている南京錠やあたりに生い茂る頑固な茎をもつ雑草から感じられた。しかし山車小屋ではないだろう。フェンスを通り抜けられるのは、狭い、これもまた南京錠が二重にかけられている縦ラインの鉄ゲートしかないのだ。それに、これは掲示板愛護会の倉庫なのだ。
 わかってはいたが、倉庫の厚い鉄扉はびくともしなかった。南京錠にはばまれている感触さえなく、それはまったく完璧に閉ざされていた。倉庫番であるにもかかわらずその倉庫の鍵を渡されていないというのもおかしな話だが、たとえこの手に鍵があり、ふたつの南京錠を解錠し鎖を外せたところで、きっとこの扉はびくともしないのだろうというほとんど確信じみた感覚があった。扉が開かないのなら、その奥深くに眠っているものは、何のためにそこにあるのだろう?
 僕はあきらめて踵を返し、公園入口横の掲示板を確認しようと歩いていった。これもまた過ぎてきた年月を感じさせる重みと軽さでそこにあった。けれど、何かがいつもとは違うようだった。理由はかんたんにわかった。掲示物が貼られているのだ。

 浄水センター前及びその他の消火器の破損について
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 見たところ、消火器破損についての黄色い紙が掲示物の中央に鋲で堅く留められており、それ以外の三つはそれに便乗する形でまわりに貼られているようだった。そして中央の貼り紙が、取ってつけられた他の掲示よりもひとふたまわり強い主張でそこに存在していた。詳しく文字を追っていくと、浄水センターを起点としてK海岸(川向う一帯がK海岸地区にあたる、そこには僕の通う高校もある。いっぽう川のこちらがわはK地区)の路傍に据え付けられた町内会の消火器格納箱がことごとくへし折られているらしい。消火器そのものに支障はないこともあり、人為的、それも愉快犯であると推測される、とのことだった。下部には、その場を目撃した場合には警察に通報、もしくはこちらまでとあり、そこにはいくつかの番号に並んで僕の父の携帯番号も明記されている。
 僕は先日の集まりと、大男さんの言、そしてイワタさんのいつになく真剣な眼差しと彼の後を追うコイトさんの若い小麦色の後れ毛のことをそこから連想せずにはいられなかった。被害が川の向うだけということは、とある意味に考えを到らせるにはこれ以上ない根拠であるかのようだった。彼らは何かを実行し、掲示板上において不審人物として取り上げられそうになっているのだ。僕は戸惑いや思考のおだやかな過程を一足で飛び越し、初期微動の迫る最中に異常を感じ取って野性をとりもどす飼い犬のように、敏感な五感を不吉な予兆にさらされた。半壊したポンプ所にはいまだ規制テープがはりめぐらされたままで、割れ目はしわしわのダンボールで何とか隠されていた。その致命的に傷ついた構造物をも守らねばならないという思念を、そのあわれな傷口は僕に語りかけてくるようにも思われた。
 小屋に戻ると、あの洋品店主人のスポーティーな人影が壁に寄りかかっていた。不吉なことがもう進行しつつあるのかもしれない、男の立ち姿はどうしてかそういう意識を僕にあたえた。男は常と変わらずあいまいな微笑を浮かべ、こちらに目礼した。
「今来たんですか?」と僕は訊いた。
「ええ、今です。たった今」
 僕がドアをあけ促すと、男はどうも、と言って靴のうらを軽く払いなかに入った。立てかけてあるパイプ椅子をひらいて置くと、男は再度どうも、と言って股関節の悪い老体のようにじっくりと時間をかけてそこに座った。
 拍子木の甲高い音が、かんかんかんかんかん、と響きだす。雀のさえずりがその合い間をすり抜け、放散する。窓の外をコウモリ、いやツバメがものすごい速度で地面と平行に飛んでいるのが見えた。雨降りが近づいてきているのかもしれない。
「そろそろ気になりませんか?」と男が不意に口をひらいた。
「というと?」
「わたしが何なのか、です。わたしが何者で、何故きみを毎週のように訪ねるのか。ようするに、この場におけるわたしの存在意義です。レーゾンデートルです。気になりませんか?」
 正直なところものすごく気になるし、明らかにできるならばぜひともそうしてもらいたいところだった。しかしながら、先ほどからぴたりと背後を追ってくるあの不吉な予感は、いまだに僕を見のがすまいと執拗にとらえていた。それは僕にあるあらゆる穴、耳や鼻の穴や脆弱なものの見方にいたる方々の穴から脳髄へと、綿毛のようなしたたかさで悪意をのばしてきていた。そしてその透明な異物は僕のなかで儘ならない方向性をおびて拡散し、僕の思考をいじくりまわった。
 目の前のこの男は敵なのかもしれない、と思った。
 そう考えるとうまいこと辻褄が合わさった。男は腹のそこを巧妙にくらませた僕らの敵で、この倉庫番小屋という敵の要所の偵察任務をかされた斥候なのだ。僕の任命されているインチキな倉庫番と似たように、この男も同じくインチキな斥候を謎めいた本陣営からまかされているのだ。カチリ、と僕のなかで自己満足のきらいのある前進駆動のスイッチが入り、靄がかった不明瞭な道筋を前照灯がハイパワーで照らしあげようと血道を上げた。
「あなたが話したいのなら話せばいい。僕はここにいるだけです」
 僕がそっけなく答えると、男はいささか拍子をつかれたような表情で固まった。しかし即座にあの柔和で意地悪な雰囲気を復帰させて言った。
「なるほど。そういったスタンスできましたか。なるほど、いいですね。すこしばかり劇的で、滑稽の風味もありますが、いいですね」
「感動的でしょう?」と僕はたたみかけた。
「ええ、実に」と男は言った。そして口をもぞもぞと動かした。それはほんとうに面白がっているようでもあり、耐えきれぬ憤怒にさいなまれているようにも見えた。
「わたしはね、公園愛護会の者なんです。ご存じですか、公園愛護会」
 僕はだいたいの予測を立てることができた。それが敵の勢力だ。が、あえてかぶりを振った。すると男は、そうですか、ご存じないですか、と言ったが、それで当然だというふうな調子だった。見るまでもなく、洋品店主人は僕にたいするやる気のような情動をみるみるうちに失っていくように見えた。傍から見ても、それはえさを横どりされた子猫のぎこちなさに似ていて、何ともかわいそうな感じだった。
「われわれは公護と呼んでいます。何とはなしに響きが組織らしいでしょう? まあそれはいいんです。公護はその名のとおり、公園を愛護します。町には大小問わず三十近くの公園があります。月に二、三度の清掃や除草、花壇管理やかん水、遊具のかんたんな修繕や塗装まで行ないます。ごく実際的で即物的な集まりです。県内を見わたすだけでもこのような会はごまんと存在しています。それだけ退屈でくだらない、善良で必要な活動を行なっているわけです」
 煙草、もってますか、と訊かれ、僕は素直に一本を差しだした。男はこちらが心配になるほど力いっぱいに煙を吸いあげ、長い時間をかけて吐きだした。
 かんかんかんかんかんかん……
「やめていたんですけどね、これは脳に良いんです。あくまで表面上は、ですが」
 羽虫のような灰が男のトレーニングウェアの上に落ちた。その白い汚れは決定的にその機能的な生地を汚しているように見えた。それで、僕は頭の整理がしたくなり、椅子の上に立ちあがって思う存分その作業にふけりたくなった。これは脳に良いんです、という声がサーキットを駆けめぐる平たいレーシングカーの形状をして唸り反響した。
 男は煙草を慣れた手つきでもみ消した。「きみは何か聞いていますか。先生やイワタさんから」
 声の調子からやや物騒なものを感じ取り、それが一連の器具破壊についてのことだとわかった。
「それは、破壊の?」
「ええ、それです。きみにとってはもうどうしようもないことかもしれませんが、もしもそこに悪を見つけたのなら、よく考えたほうがいいです。きみはまだまだ若い。若すぎるといってもいいでしょう。とにかく、よく考えることです」
 男は僕の反応を待たずにやにわに立ちあがり、コイトさんをよろしくお願いします、と最後にぽつりと言い残して、そのまま小屋を出ていった。
 いつしか、拍子木の乾いた音はもう聞こえてこなかった。

 次の日、僕は高校をずる休みして、町中を歩きまわる計画を立てた。町中とはいってもここK地区と、K海岸くらいが限界だと思われた。午後には倉庫番の役目があるのだ。ただ、それだけにしてもけっこうな範囲だ。
 両親に勘づかれないよう、いつもどおりの八時二十分に家を出た。まずはスーパーに向い町内の地図を手に入れよう、と僕は決めた。スーパーは九時まで閉まっているから、それまですぐそばの涸れ川に座り込んで待つことにした。谷間から頭上を見あげると車の音と風の音が聞こえた。僕は目を閉じ、ポケットをまさぐり煙草をくわえた。
 ——コイトさんをよろしくお願いします。
 ふと洋品店主人のきのうの言葉が思いだされた。コイトさんをよろしくお願いします? いったいどういうことだろう。ふつうに考えるならば、僕は何かをあの男にまかされたのだろう。そしてまかされたものとは、あのコイトさんだと考えてまず間違いない。男はどうやらイワタさんや大男さんのことを知っているみたいだったし、もしかすると以前はこちらがわの人間だったのかもしれない。男は僕の見なすひとりの敵だが、それは必ずしも対立し衝突しなければならないというものでもない。加えて、きのうの男の態度の急変も気にかかった。あの男はあるいは、僕の味方で、僕に何かを忠告したかったのかもしれない。男にできるのは、せいぜいあのくらいのことだけだったのだ。
 ——コイトさんをよろしくお願いします。
 感動的。
 コイトさんは煙草がきらいみたいだ。あるいは、僕がそれを吸うのを見るのがいやなのかもしれない。彼女は鍼灸院の助手として、健康、それも漢字だらけの東洋的な成分による健康をほかの何よりも信じているのだ。草根木皮への信頼というものがそのまま歩いているような人だ。
 ——からだが変われば心が変わる、心が変われば人が変わる。そういうものなの。
 以前コイトさんはそう言った。
 僕は真逆だと思う。
 僕はくわえていた煙草をボックスに戻した。思考が行きつ戻りつし、埒があかなかった。風が一瞬やみ、向いのコンクリートの斜面を散歩中の犬の朝いちばんであろう色の濃くやたらと長い小便が自然に削れた溝にそって垂れおちてきた。僕は立ちあがり、スーパーへと黄色みのまだ残る液体の道をまたいで斜面を上った。
 思っていたような地図はスーパーのどこにも売られていなかった。少し悩んでから雑誌コーナーに立ち寄り、ちょうどいい地図が載っているものを見つけてその部分を破りとってからその場をはなれた。その地図はやや簡易すぎる感もあったが、欠落しているところはそのつど自分の記憶でおぎなえばよかった。
 イートインスペースのテーブルで地図を広げ、赤のマーカーペンを取りだし、K地区およびK海岸地区のおよそすべての道を効率よくめぐることのできるルートを考え、マークをつけていった。こうしてみると、通ったことのない道がけっこうな数あることがわかった。地図上の町は、僕の頭のなかで認識されていたあいまいで確かな質感のある物質的な空間ではなく、ほぼ四角形の連なりというところもあれば、拡大して見た微生物のようにかなり入り組んでいるところもあり、ほとんど観念的で不気味なくらいだった。ひととおりマークを記し終えて全体を眺めると、それは人体の解剖図のようなわけのわからない模様を浮かび上がらせた。
 地図を見ただけだと途方もない道のりであるように思われたが、いざ歩きだしてみるとそれほどでもなかった。まずはこちらがわのK地区から探索を始めたが、数十分もするとかなりの経路を地図上において進んでいた。順調なすべり出しに半ば気がゆるみかけたけれど、目的を心のなかで再確認し気を引きしめなおした。
 それはすぐに見つかった。道路にはみだし、町内会の文字をこちらに向けてぐにゃりとおじぎをしている赤い物体。消火器の格納庫がへし折られている。僕は地図を広げ、その正確な位置にバッテンの印をつける。その後も、いくつも消火器を見つけたが、同様にすべてへし折られていた。そのたびに僕は地図に印をつけていった。奇しくも、町内会ではなく市の印字がなされた消火器は、何の変哲もなく道に立っていた。町内会が保有している消火器のみが、あわれにも、ことごとくぐにゃりと頭を垂れている。また消火器だけでなく、掲示板も見つけたそのつど印をつけていった。掲示板はいたるところに立っていて、決まってその表情をうしない、うら淋しげだった。それらはまるで手術痕のように、地図の上の町に消すことのできない事実を刻んだ。しかし、それも誰かの望んだことなのかもしれない。
 日が傾き始めていた。息をほうと吐いたが、白くはならなかった。事態をこの目でじかに確かめるために町を歩きまわろうと決断し、実行にうつしたまではよかったものの、歩けば歩くほど僕の頭のなかは困惑の色で満ちていくようだった。誰が敵で、誰が味方なのか。そもそも、敵や味方なんてあるのだろうか。仮にあったとして、そんなわかりやすい二項対立を、この町は許容するのだろうか。そこで僕は唐突に気づいた。僕は、誰の敵でも味方でもなかった。
 海岸からつづく石畳の歩行者通りに入るとすぐ、糸柳の木の下に人目を忍ぶようにして町内会の防災器具庫が立っていた。よく点検するまでもなく、そこに破壊の事跡はなかった。その隣りには「第二班長」という札のかかった瓦屋根の平屋があり、食事処でもあるその家からは焼き魚の焦げくさい空気が漂ってきた。僕は地図に倉庫の印をつけた。壁の透き間に無理に取りつけられている二台の室外機が勢いよく軋みながら回転し、うなる音を上げていた。
 防災器具庫というからには、各種防災グッズが要事のさいのために備蓄されているのだろう。そのことはわざわざ倉庫を開けずとも容易に想像できた。これで防災器具庫は五つ目だった。ほかにも、公園愛護会の倉庫が公園ふたつに倉庫ひとつの割合で見つけることができた。そこには、あの男が言っていたように、公園を手入れするためのさまざまな用具がおさめられていて、月に何度か実際に使われているのだろう。町で最も面積の広い公園では、地下貯水池用の倉庫というものも見かけた。それも、考えるまでもなく、必要なものだという事実をまとってそこにあった。掲示板愛護会倉庫だけが、この町の空気のなかで、また僕の地図の上でも、異様な存在感をはなっていた。
 歩きだしてからだいぶ時間が経ち、マークの途切れている地点、すなわちゴールに設定した浄水センター前にたどり着いていた。川の上流に太陽が沈んでいくのが見えた。気温がどんどんと下がっていくのにもかかわらず、体のあちこちが汗でべっとりと濡れていて気持ちが悪かった。低い石塀に腰をかけ、靴を脱ぎすてて足の裏を入念にほぐした。水の流れる音だとはとうてい思われない、強拍と弱拍が繰り返す重たいうなりが背後の施設から聞こえていた。
 地図は見事に無残な有りさまを僕の目にさらしていた。これで生きながらえることができるならば、いかほどの高等な医術が施されたのだろうと感嘆するしかないくらいに、町は僕のマーカーペンの跡でぼろぼろになっている。結局、町内会の消火器だけが正確に破壊されていて、それ以外の倉庫や掲示板などには何の被害も加えられていなかった。何の気なしに消火器格納庫の×印の数を数えてみると、それは二十六個で、しかもKとK海岸にそれぞれ十三個ずつだった。もう一度確かめるためにそれらの傷痕を追いかけていると、何だか不意に馬鹿馬鹿しくなってしまって、よれよれになったその地図をてきとうに丸めて目の前の川に投げ捨てた。それは音もなく水面に浮かんで流れていき、やがて見えなくなった。そのあとで、すぐそこの浄水センター前にガラスで覆われた掲示板がひっそりとたたずんでいるのに気がついたが、別にもうどうでもよかった。地図に掲示板の印がひとつ増えたところで、何がどうだというのだろう。
 太陽が橋の向うに完全に隠れてしまうと、ボックスカーがやって来て近くの路肩に停まった。出てきた男はトランクを押し上げると、なかから釣り竿を二本と保冷バッグのようなものを取りだして、川の護岸を梯子で降りていった。もうだいぶ倉庫番の開始時刻をすぎてしまっている。掲示板愛護会倉庫は、僕がどこにいようが、まったくのがら空きだ。今も、そしてこれからも。
 そこで、イワタさんとコイトさんのふたりがボストンバッグのような荷物を持って公園愛護会倉庫のある隣りの公園に入っていくのを、僕は見た。

       *


 後日、K海岸地区の倉庫が何者かに荒らされたことを知った。とはいえ、さしたる実害はないということだった。それからほどなくして、僕は小学校の隣りにある町内会の防犯連絡所に呼びだされた。そこには両親もいたと思う。畳の広間に座っていたことは憶えているが、そこで何があったのかはよく思いだせない。何かの要件で叱られたり注意されたのかもしれないし、ただの恒例行事の宴会だったのかもしれない。畳と木のむせかえるような匂いだけを、今は改築されて新しくなったというその建物の以前の光景とともに記憶している。

 それから三カ月余り、僕はあの倉庫番の小屋に変わらず通いつづけ、無事に何事もなく任期を勤めあげた。いつしか掲示板からは不審者の貼り紙がきれいに剥がされていて、ぽっかりと中央が空いたそのさまは不自然に際立っていた。危ないことなんていっさい起こらず、僕は無限にある雑誌のナンバーを拾い読みし、それにも飽きると付近を散策した。そのほとんどは、ある日突然廃業してもぬけの殻になっていた「ほてる・リバーサイド」に集まる野良猫たち、とりわけ耳の後ろに禿げのあるぶち猫と、変わらず広々として荒れ果てた前庭をいっぱいにつかって遊んだ。リフティングの青年は二度と僕が小屋にいるあいだに公園を訪れることはなかった。
 イワタさんにも、コイトさんにも、そしてあの洋品店主人の奇妙な男にも、その後会うことはなかった。イワタさんは表具店を畳んだらしく(表具店なんてもう四半世紀も昔に前近代の烙印をおされていただろうから、特別不思議でもないけれど)残された土地は分譲にだされていた。コイトさんのことは知らない。僕は鍼灸院に用があるわけではないし、そもそも病院に行くこと自体、あまり得意ではないのだ。あの奇妙な男も、その後小屋を訪ねてくることはなかった。
 僕の後任に決まったのは、驚くべきことに、僕のクラスメイトの女子だった。彼女とは中学校からずっと同じクラスで、顔やおおまかな交友関係などはよく見知っていたけれど、話したことは一度もなかった。驚いたのは向うも同じようで、僕らは、以前にイワタさんとコイトさんと僕の三人で集まったように、あの小屋に差し向いに座っていくぶんぎこちなく、引き継ぎのようなことをした。女の子に任せても大丈夫なのだろうか、と当初は少なからず不安もあったけれど、特に何が起こるわけでもないし、そもそもコイトさんだってやっていたのだということもあって、滞りなくその引き継ぎのような何かは完了した。そして僕は倉庫番を半年でやめた。
 その女の子とは、その偶然の接近を機によく話をするようになり、気づいた時には事実上付き合うような関係までいっていた。ふたりで隣り町にやぶさめを見物しに行ったり、動物園に双子の子象を見に行ったりした。けれどその二回のデートをしただけで、いつしかこれまた事実上別れたような恰好になってしまった。
 僕はその時だけ煙草をやめた。

 季節がめぐり、僕らは自分のペースで受験勉強を始め、自分に見合うと判断した大学から合格や不合格の通知を受け取り、あっという間に高校を卒業した。あの女の子がどんな大学に進んだのかは知らない。今、どんな町でどのように暮らしているのかも、知らない。
 僕と両親は僕が進学するのに合わせて都会のほうへと引っ越した。大半のクラスメイトは町の付近に残ったけれど、僕と同じように出ていく者も少なからずあった。引っ越した直後に、環境の変化から来るストレスで飼い犬が死んだ。それからちょうど一年ほど経ったころには、母が父のかかえる金と女におけるだらしなさに耐えかね、父を家から追いだした。僕としてもその家に留まっている理由がないことにようやく気づき、大学近くの安いアパートに部屋を借りて家を出た。
 倉庫番のことなどさっぱり忘れていた僕は、大学にろくすっぽ友達もつくらず、近くの市営プールでこまごまとした事務のアルバイトを二年つづけた。校舎からはしだいに足が遠くなり、いろいろなことがあったりなくなったりして、四年への進級をのがしたことをきっかけに大学を辞めた。

       *

 僕は煙草をもみ消し、ポケットから小さな鍵を取りだした。記憶の断片はかき消えていく煙とともに、また見えないどこかへと去っていった。スーパーの店内から聞こえてくる喧噪は、ますます大きくなってきている。
 これから外階段を昇っていき、屋上の鍵を開ける。ドアの先には受水槽が備わっていて、まわりは救いがたく汚れ散らかっている。僕は、新しい町の賑やかなスーパーのために、そろそろ仕事をしようと思った。

〈了〉