髪についた水滴を払うということ


 入園時とはうって変わって、出口のほうの、入口と同様に石室みたいな灰色の部屋はしんと静まりかえっていた。機能的な面では今いるここは入口でも出口でもあるからまあ僕たちの立場からすれば出口というだけのことなのだけれど、出口というのは結局のところ出口でしかないのだし、ここはそう、ほんものの出口なのだ。入口のようにだれかが何かを期待して熱心に歓迎してくれるわけではないし、わざわざ温かく見送ってくれる親密な知り合いがいるわけでもない。そういうわけだから、ある意味でここは完ぺきな出口だといえる。最終的に意味をもつのは「立場」と「どう思うか」、この二点にすぎない。

 陰の落ちるカウンターの奥では緑色のジャンパーを着た子供がにこやかに微笑んでいた。灯りの少ない部屋だったから、子供は泣いているのかもしれなかったし、怒っているのかもしれなかった。正解は闇の奥にあって、それはたいして意味のないことだった。うす暗がりの中で僕はミーアの手を取って立ち上がり、肩や足腰についた砂埃をはらった。時計の秒針の音さえ聞こえてこなかった。

 ドアを開けた。がちゃ、と大きな手触りのある音がした。外に出た。左右を見渡すと、どこまでもクリーム色の高い壁がつづいている。地球をぐるりと一周するみたいに、どこまでもつづいている。壁は陸を走り、大海を飛び越え、国境を無視し、ここにまた戻ってくる。それが永遠に、間断なく行われている。地球をぎゅっと凝縮してしまったかのような錯覚に陥り、僕は首を振った。地球は広い。とてつもなく広い。それでいい。

 冷たい風が北から吹いてきた。僕は両手をポケットに突っ込んだ。

「疲れたな」僕はいった。変にややこしい疲労感が全身にたまっていた。

「何故だか、ほんの少し寂しさのようなものも感じられます」

 ミーアは無表情を取り繕っていうと、僕の横に並んだ。

「僕らは少なくとも、あの子供たちからすれば大人じゃないみたいだ」

 そう僕がいうと、ミーアは軽く肯いた。

「はい。ですが、それはそれだというだけです」

「疲れた」

「おそらく、わたしも疲れていると思います」

「そうか」

 遊園地を越えたこちら側にはもう道という道は延びていなかった。靴やその類いの硬いものに踏み均された跡がかすかに残っているだけで、その足跡の集合が方向性をもつ筋として浮かび上がっている。だがしばらく歩いていくと、そのぼんやりとしていた筋道もなくなっていて、曇天の気配が西寄りの太陽をすっぽりと隠した。にわかに底冷えする寒さがあたりをおおいはじめた。

 針葉樹の並木をまっすぐ進んでいると、重たい雨が降りはじめた。ざあざあと音のあるしっかりとした雨だった。途中で、僕たちはアスファルトで舗装された自動車道に出た。整備されたばかりなのか端から端までつるつる・・・・で、したたかに降る雨に黒く光っていた。ひときわ強い光が視線を横切ったので顔を上げると、道路の両脇に等間隔で立っている電灯が明滅を繰り返して光り出した。光を支えている濃緑の細い柱はみな一様にはげていて、だいぶ以前から古びているのが目に見えてわかった。明滅は数分の間断続的につづいたが、突如北のほうのものから順番に弱弱しい光が固定されはじめた。薄い橙の粒が波となって僕たちのほうにうち寄せ、横ぎり、背後に遠ざかっていった。もうすっかり夜だった。電灯の一群は今にも死にそうになりながら懸命に発光していた。センターラインをはさんで左側を僕が、右側をミーアが歩いた。樹林は息をひそめて夜に紛れ、僕とミーアは死にそうな電灯の光をたよりにまっすぐ進んでいく。

 隣を窺うと、ミーアは休眠状態に入っていた。目はどちらも開いているし、歩調も変わらず安定しているけれど、彼女は彼女の大事な部分を休ませている。おそらく今彼女に話しかけるとすれば、数秒の間が発生するものの間に合わせなどではない明晰な返答が寄越されるだろう。いかに休眠状態とはいえど、彼女はフルに活動しているのだ。でも僕は話しかけるのはよした。自分の髪についた水滴を払い落とし、ミーアのもそっと払った。

 徐々に樹々の濃度がうすれはじめたかと思うと、死にそうではない光が遠く先に点在しているのが見えてきた。光はいろいろな色を帯びていて、多種多様な方向性を放っているように見えた。そのまま道なりに数キロ行くと、大都市の輪郭が夜の底から浮かび上がって目の前にあらわれた。

 北の国。ロボットの国。

 僕はミーアの横顔を見た。ミーアはまだ静かに眠っていた。白銀の肌は、雨に濡れて光沢を反射させていた。何かがいえそうになって、何かをいおうとした。けれど何もいえなかった。何かをいうための何かが僕には欠けていた。それは言葉かもしれないし、感情であるかもしれないし、もっと物質的なもの、あるいはとても深い精神的なものなのかもしれない。その何かが僕には全く欠けている。だから、僕は何もいえなかった。

 もう街はすぐそこまで近づいてきていた。まるで街と外界をまっぷたつに区切るようにして、大渓谷が道と垂直に延び、無限の深淵をのぞかせていた。一本の橋だけが両岸を渡していて、緩やかな弧をえがくその中央に、僕が立っていた。僕は僕を見た。僕も僕を見た。雨が上がり、東の空から強烈で圧倒的な太陽が顔を出そうと上昇しはじめた。

 ミーアが目を覚ました。