きみといる世界


 ある日、何かを好きでいるってことは、それそのものが好きだというわけではなくて、その何かがある、その何かを含んでいるこの世界が好きなのだと、ぼくはふと気づいた。

 

 たとえばそうだな、ぼくは小説が好きなんだと思う。

 いきなり、「好き」だと「思う」なんて、いささかあいまいな宣言になってしまった。チョイスに失敗してしまったかな。ええと、何て言うかさ。「思う」という言葉じたいに貴賎はないはずなのに、こういう時にだけ心悲しい言葉になってしまうよね。別にあれだよ、奥歯に衣着せてるってわけじゃないからさ。ただ、そのままのまっすぐな意味で、ぼくは小説のことを「好き」だと「思」っている。

 いや、そんなことはどうでもよくて。ぼくは小説がまあ好きなんだけど、小説そのものが好きかって問われると、どうもそんなような気は殆んどしない。ある意味――ある瞬間、と言ったほうがいいかな――においては、小説を読んだり小説について想ったりすることは非常に好きなんだけど、ほかのある意味――ある瞬間――においては、小説を読んだり小説を想ったりするのがうんざりするほどかったるい、、、、、、なんて奇妙なバランスが日常と化しているわけさ。

 正直なところ、まず、文章を読むのは単純につらいよ。つらくないですか? つらいと思います。小説というよりも、その前段階の話ですねこれ。ああ、なんという! 文字の洪水はぼくらの目を疲れさせる! しかも、それをただ追っていくだけではダメで、紙背と紙腹(?)に隠されたり隠されていなかったりする意味いみを、自らの長期記憶とやりとり(相互に転送、とか言っちゃいません)することで、ええと、ようは頭をフルに活躍させねばならないわけです。

 でもね、ぼくは小説が好きだよ。「好き」なんだと「思う」、だって? ……舐めたことぬかしてんじゃねえよ。好きなんだよすっとこどっこい。

 なんて考えていると、目と目のあいだのせせこましい空間でうずを巻いていた「好き」という情念のようなものが、両耳の後ろから頭のてっぺんという無限(そこはどうしても自分では見えないので)に昇華していく。そこから再度考えをめぐらせてみると、「ああ、ぼくは小説のあるこの世界が好きなんだなあ」と思う。「思う」!

 むべなるかな。

 

 それと似たようなことが、ある日、まさに快刀乱麻を断つってな感じでスパっと脳裡をよぎったのだった。埒が明いたのだった。

 でも、なんだかこれ、殊勝なマゾヒズム、って感じもある。ちいさな事物にたいする感情を、それを内包している世界にまで発展させて捉える。ぼくの「好き」をぼくのものにするのは、この広大な世界を終に攻略するまでおあずけ、、、、です、なんて。そういう、全体に墜ちていくような、潔さそうであまりそうでもない、まごついた感覚。いじらしい潔癖傾向。

 

        *

 

「それじゃあ、私はどうなの?」

 夕間暮れに声がして、声のほうを振り返ってみると太陽が沈みかけていて、そこにはやっぱりきみがいる。ぼくは、体に絡まったいろんな想念の糸を払い、一足飛びでその世界に駆けつける。

「やあ、待ったかい?」

 ぼくはきみにもっと言うことがあるのだと思う。きみにたいしてさもしい気持ちなんてないし、虚心坦懐、ありのままを伝えることができるはずだと思う。でも、何も言葉が見つけられない。まぶしい。太陽は好きだ。まぶしい。太陽は、何て言うか、好きだ。

「私は?」

 きみはぼくから目をそらさずに、ふたたび問う。

「きみは」

 ぼくは言い淀んでしまう。言葉が見つからない。けれど、なんとかつづける。

「ぼくは、きみのことが好きだ。きみのいる世界が好きなんじゃなくて、きみが好きだ。きみといるこの世界が好きだ。ほかでもない、きみのことが好きなんだ!」

 ちらちらと音か風がぼくの頬をなでていくと、きみは少しだけ目尻を下げる。それがどういう感情をぼくに向けているのか、ぼくにはわからない。知りたいな、とぼくは思う。きみはどんなことをぼくに思っていて、ぼくはきみをどう思えばいいのだろう。

 ぼくはきみが好きなんだと思う――

 

        *

 

 翌日の朝早く、すっしりと重たい目蓋が涙で濡れていることに切ない興奮を冷ましながら、ぼくはきみのいない世界で目を覚ます。泣きながら目覚めるのは、何となく好きだ。