何のために音楽を聴いてるの、と訊くと、「そりゃあおまえ、音楽が好きだからだよ」っていつもヘッドホンを首から提げてるかれは眉ひとつ動かさないで軽やかに言った。ぼくも音楽は好きだし、ただまあかれと好みが合ったことはまだ一度もないのだけれど、音楽というものは須くみんなにありふれている。だからなのだろうか、ぼくの頭の裡では、かえって音楽そのものについて疑問符が浮かんでいた。なんだろう、どうにもぼくとかれとでは好きの方角がズレてる気がするのだ。
「不思議なものだな」
ぼくはかれにつづいて歩道橋の階段に足を踏みかけつつ言った。点字ブロックは擦り切れてつぶれていた。
「またそれか。おれはいよいよ、おまえのフシギにはうんざりだよ」
「音楽が好きだから音楽を聴く。おかしい」
「……つづけなよ」
歩いているのは歩道橋じゃなくて木造の橋だった。ふつうのブリッジだった。階段なんて昇ってなかった。高欄に手をかけ滑らせていたらそうだとわかった。でも、脚の下からは車の走る音がした。
「ぼくは音楽を聴くときは音楽を聴く。けれど、きみはどうやら違うようだ」
「わからん。説明を求ム」
「つまりね――」
かれはわりあいディープな溜め息をついた。なんだい失礼な。
「――音楽を聴くために、音楽を聴くのだよぼくは。金管楽器の切羽詰まったような愛らしい響きが恋しい! 聴く……/グウィングウィンした変拍子のイかれたラインを渇望している! 聴く……/というようにね。必要な時や場合に合わせて、適宜会いに行く感覚といえばいいのかな」
「おれはそうではないと。おまえはそう言いたいらしいな、どうやら」
「きみは、そうだな、いつもではないがいつも音楽を聴いているようなそんな感じの人間だ」
「めっぽう雑な人間評価」
「電車に乗ってるとき。机に向かって作業をしてるとき。便器に向かっていきんでるとき。とくに何かを考えたり意思をもって動いたりしないでぼんやりしてるとき。ほとんど無差別的に、お気に入りの旋律に身をまかせているようだ」
かれは黙って耳を傾けている。ように見える。
「そして、なんといっても同じようなジャンル、ジャンルといってもあいまいなものだからあれだけれど、まあ同じような体系の曲ばかり聴く」
「まあだいたい間違ってないが、それはそれとしておまえとおれってそんなに互いに知り合ってるように親しかったか? だいたい間違ってないからいいけど。というかだいたい間違ってねえのかよなんなんだよおまえ」
「それってさ、どうにも……ん?」
「なんだよ」
「ごめん、自分で何言ってんのかわからなくなっちゃった。まあその、なんだ、音楽の目的と手段とその他もろもろの細かい行為の区分分けにさいして、われわれは音楽に対してきちんと向き合えているのだろうか? いちコンシューマーとして?」
「おい前向いて歩けよ落ちるぞ」
かれに言われて見ると目の前はプールサイドの縁取りで、もちろんすぐそこはプールとして水がびっしりと張られていて、あやうく落ちるとこだったよーなんておちゃらけたら足下に黄金色の虫が二匹ひっくりかえっていて、ぼくもひっくりかえって、入水した。つめたいー! なんてみんなで笑った。這々の体で地上に這い出ると、春めいた白っぽい空気が、内腿のやわらかい肉と皮膚に触れた。
みんなと別れて、かれもすでにいなかったし、家に帰るとお父さんとお母さんが死んでいた。
お父さんの死体を見ていると、どこか悲しげなフルートとイングリッシュホルンのしらべが鼻のてっぺんあたりを浮遊していた。お母さんの死体はぼくに、ピアノとギターが妙な塩梅でかみ合った、胸の中心を刺すようなアップテンポの曲を思い起こさせた。当然だ。それらはぼくの、かれらの音楽なのだからね。
ふたりの死体をひとつの視界におさめてみた。すると木管楽器の切なすぎる感傷も、図抜けて良く五線譜を駆けるカジュアルな展開も、すべてが重ね合わさったかと思うと、驚くほどのあっけなさで消えていった。
さっきから曇り空だからわからなかったけれど、もう夕目暗のころで、もうそんな時間だったかな、と確認するのもつかの間、雨が降り出した。雨の降る音がしたから、雨が降っているのだと思った。部屋の外には、たぶん雨降りの景色がひろがっているはずだった。
不意に防災無線から、五時のチャイムが鳴り始めた。夕やけ小やけ――
それを聞いているとぼくはなんだか安心してきて、この音楽をずっと待っていたような気もした。毎日この時間に鳴って、毎日この音を聴いていたのだと思うと、何を今更と皮肉な気分にひたされた。けれどそれでよかった。強引に救われてしまうみたいで、ちょっとだけいたたまれない。けれど、よかった、とぼくは思っているのだった。
ぼくは用意していた踏み台に昇って、えいと宙を蹴った。