アーサー・デントの憂鬱

 かりに、宇宙のすべてをその頭ひとつのなかで把えきってしまったとき、ただひとつの惑星に生涯留まって暮らすということは、果たして可能だろうか。「宇宙は広いな〜」と漠然で抽象的な思いが、思弁的論理性を伴ったり伴わなかったりして一時的に、あるいは徐々に訪れたとしたら。「広い」なんてものが無限のなかに存在することができないのではないか、との娯楽的疑惑が確信に変わってしまったら。
 僕らのポケットに、銀河ヒッチハイク・ガイドはない。      

銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの主人公、アーサー・デントはといえば、彼の故郷である地球をヴォゴン人によって一瞬のうちに破壊されてしまった。超空間(ハイパースペース)バイパス建設の邪魔になっていたかららしい。アーサーはその後、認識と現実がひとつとしてある宇宙を旅することになる。それはつまり、宇宙という不可能性と可能性が渾然一体となって、その上で万里の長城無量大数無量大数乗分ぐるぐる巡った先にある、いや、ありそうなものについて目を開かされてしまったことに他ならず、間違いなく、ひとつ惑星の上で数十年すごしてきた人間には計り知れない量の驚きと絶望と退屈と一周回ってまた驚きが襲いかかるであろう。まあそういうわけで、彼は仲間のような人間とともに宇宙のあちこちに出向いては、宇宙を救ったり、過去の地球に舞い戻ってあこがれのクリケット競技場で空を滑空しながらボーラーをやったり、また宇宙を救ったりする。それは当然な流れがそうさせているように思われる。一方で、宇宙全体を破壊しようと白いロボットたちを解き放ったクリキット人の排他性も、僕としてはウンウンと首肯せずにはいられない。それも当然の摂理だなあと。
 宇宙とは何なのだろう。方程式ではなく、それ以外の、大半の地球人の頭に優しい、とっても分かりやすい形で立ち現れることが、あるのだろうか。ないだろうな、たぶん。「絶対にない」という定義こそがそのまま宇宙の言い換えとして機能しているように思われるから。
 ここで宇宙の「ない」広大さについて考えるのはよしておこう。だって無理だし無理する必要もいまはないからね。

 主題に立ち返ろう。
 
「かりに、宇宙のすべてをその頭ひとつのなかで把えきってしまったとき、ただひとつの惑星に生涯留まって暮らすということは、果たして可能だろうか」である。
 
 ようするにこれは巷で言う「気持ちの問題」に八割ほど当てはまる。無限を有限として――これでは言葉が変だ――、無限を(無限のなかの)有限として把握してしまったら、ひとつところでじっとしているとどんな気持ちになるのか。「ない」広さに呑み込まれてしまうのか、それとも「ない」広がりのなかで「ある」(と思われる)場所にいることで安心するのだろうか、あるいは(まあこれが一番ありえる、だって僕は「ない」広さをまだ、まるで知らないから) 全く別の高次元(低次元)感情を抱くことになるのだろうか。
 変な話、そんなとき、僕は妙にまじめ腐った顔でくだらないことに真剣にリラックスして取り組んでいたいな、と思う。いきなりなんだ、無責任だ、どんな気持ちになるのか考えているのではなかったのか。そんなことは知らん。わからないことはわからないし、いまは無理する時期ではない。とにかく、そう、人っ子ひとりいない芝生の公園でサッカーボールを思いっきり真上に蹴り飛ばしたり、ぱっと見かけた文字列のアナグラムでおもしろい言葉が出てきたりしないか、とかしていたい。こんなことはいまは全然したくないけれど、そのときになったら僕はそうするだろうと思う。よくわからないけど。
 あるいは地球上の全人類に同時に「ない」広さが伝わって、その一瞬のうちに不可能性ドライブを搭載した宇宙船がひょっこり登場したりして、宇宙を自由に旅できるようになったら。たぶん乗ってみる。そして不可能性ドライブに身をゆだねてみる。計り知れない感情をこの身に搭載して。
 そう、結局のところそのときには僕から選択の可能性はとっくに放棄させられてしまっているだろう。どこへ行きたいとか、何をしたいとか、そんなものはいったん彼方に吹き飛んでしまっていて、それを徐々に取り戻すためにまた徐々に歩き出すのだろう。否応なく、途方に暮れながら。
 アーサー・デントはどこへ向かっているのだろうか?

 書いていてうんざりして気が滅入ってきたので止めます。これから『さようなら、いままで魚をありがとう』(河出文庫)を買いに行きます。とりあえず、いまのところ、宇宙はまだ「他人ごと」(SEP)であるようなので。