夏の妖精さん


 永遠のような広がりをもって始まった一月半もの夏休みも、残すところ数日となっていた。大学生として迎えた初めてのそれはただ長い長いといっただけで過ぎ、特に目立ったハイライトもないモノトーンのカレンダーは当然のようにだらしなく間延びしている。何か夏らしいことをしたわけでもない。夏らしいことを自ら積極的に企てたような記憶もない。しかしどういうわけか、夏が終わってしまうという事実だけが奇妙に濃い色彩を帯びてそこかしこに染みをつくっている感じがする。そしてそれは頗る人工的な空気であることも解りきっているから、何にも悪いことはしていないにもかかわらず変にやましいような心地にもなる。毎年うんざりしていたはずの高校の頃の厳しい夏合宿が、いくらか軟化されて思い出されてくる始末だ。
 気づけば日がだいぶ傾いていて、灯りの点いたこの部屋はおそらく外からカーテン越しに丸見えになってしまっているなあと思い、作業をいったん止め、雨戸を閉めようと腰を上げた。西の方角を向くこの部屋唯一の窓の、端のところどころ破けた網戸を一気に開き、雨戸が格納されている横の隙間に手をかける。涼しい。西日を上半身いっぱいに受けとめながら、そう思った。
「どうしよう、夏がおわっちゃうよ! ねえどうしたらいいの!」
 突然下から女の子の声が聞こえた。見るとコンクリート塀とこの部屋との隙間、エノコログサが思い思いに生え散らかった狭い横長の地面に、小さな女の子が立って、こちらを見上げていた。汚れひとつない真っ白なワンピースに、ちょうど肩のあたりで切り揃えられた後ろ髪。ぱっちりと開いたまん丸の両目にはイノセントな透明さが備わっている。あれ、なんか泣いてるな。とにかく純白で透明で、あ、妖精さんかな、と感じた刹那、腑に落ちた。そう、この子は妖精さんだ。妖精さんが僕に夏の終わりを告げにきたのだ。
「どうしたんだい、そんなに焦って。確かにもう九月も半ばだし、夏はもう終わりじゃないかな」
 純白で真っ白な妖精さんは懸命に両手をこちらに伸ばしているけれど、なにしろ背が一メートルと少しくらいなので、僕まではまるで届かない。そういうわけだから僕もひょいと両手を伸ばし、窓越しに真っ白な妖精さんの両手の甲を掌で包む。
「大変だよ! 夏がおわっちゃうんだよ!」
 ぐすん、となぜだか泣いている妖精さんが必死に訴えかけてくる。両手をこちらに伸ばしていてかつ僕の両掌に包まれているため、あふれ出る透明な涙は拭われることなく、ぽたりぽたりと落ちて地面にしみをつけている。
「おわっちゃうよう……」
 僕はなんだかこの小さな柔らかい両手を離してはだめだという気がして、そっと両手で包みこむ。細かく震えるその両手は、少しだけあたたかい。この両手を温めてあげなければならない。そのことが当然のように僕のこころに伝わっている。熱をからだ中から、ふたりがつながっているところへ集めていく。
「君は夏の妖精さんなのかい?」
「そう、わたしは夏の妖精さんなの……」ぐすん。
「じゃあ君は、僕に夏が終わることを告げに来たんだね。ごくろうさま」
「たぶんそうなのかも。でもね、よくわからないの」
 ようやく泣きやんだ妖精さんだったが、まだ小さい鼻の根元から先まで熱をおびていて真っ赤だった。夕凪で、微かに弱々しく吹く涼しい風が僕らを優しく撫でた。耳にかかったその風は、どこかささやき声のような意味合いを含んでいるようだった。
「わたしはね、気がついたらここにいるの。あるいはあそこかもしれない。どこにしたって、それがどこなのか、わたしにはわからないの。でもね、いつもそこはとってもあつくって、何もかもが色がこくって、そう夏なの。まちを歩く人たちは半そでをきていてはだに汗をかいていて、みんな笑っていて楽しそう。あついー! あついー! って言い合ってね。みんな楽しそう。
 そこでわたしは、はっと気づくの。そうか、わたしは夏の妖精さんなんだ、って。わたしは夏にひょこっと顔を出して、夏のじりじりあっつい空気をすいこむためにそこへ行くんだ、って。
 でもね、どういうわけかわたしには、いわゆるモクテキ、というものがないの。わたしはただ夏のある日にふっと出てきて、楽しそうにしているみんなをどこかうんと高いところからながめて、にこにこしているだけ。わたしにとっては、夏はわたしのソンザイリユウなのに、夏にとってはわたしなんて、部屋のすみのホコリみたいにどうでもいいソンザイなの。わたしは夏の妖精さんって名前なのに。夏はわたしをほうっておくの。どうしてなのかな」

 西日の差す角度が急速に小さくなっていく。夕暮れ時というのは、太陽がその全体を空高くに投げ出している時よりも時間の速度がいくぶん速まっているように感じられる。窓の外に見える景色は暗闇の密度を増し、あらゆる色彩は奪い取られていく。夏が終わるんだな、と僕は思う。
「そんなわたしでもね、夏がおわっちゃうってときになると、とても悲しいカンジになるの。待って! いっちゃいや! って。ヘンよね。夏はわたしにあんなにも冷たくあたっていたのに、こんなカンジになるなんて。やっぱりわたしは夏の妖精さんなんだな、っておもっちゃう。
 でもね、どうしてこんな悲しい、もっというとセツナイというか、焦る、というカンジになるのか、これもまたわからないの。どうしてわたしは夏になると、とつぜん生まれる風のように、そこやあそこにひょっこり出てくるのかもすっかりわからない。わからないことばかりで、くやしくて、夏がどこかにいっちゃうのもどうしようもなくセツナくて、何もかもわからないまま、どうしてもわたしは泣いちゃうの」
 ぐすん。
 太陽が街の建物の奥に沈んでいき、残光が空全体を淡い瑠璃色に染め上げていた。カラスの群れはいつしか鳴き止み、さらに深い闇へと戻って行った。点在する家々や低層のビルは徐々に輪郭を失っていき、曖昧な雑踏のなかに溶け込んでいく。
 気づけば、目の前のエノコログサの茂みのなかには、もう妖精さんはいなかった。そこに妖精さんがいたことを示す、窪みのようなものも全くない。夏の妖精さんはまた、どことも知れない場所へと帰って行ってしまったのだろうか。
 明るいものから順に、夜空に星がぽつりぽつりと現れ始めた。僕にはこの場所が明るすぎて見えなかっただけで、先程からそこに星は確かに存在していたはずだ。僕が暗い空間にたたずんでいれば、僕はその星を見ることができる。僕の立場の問題。
 僕は世界が夜へと暗転していくさまを、しばらく何も考えずに眺めていた。夏休みはあと数日を残すばかりで、すぐに秋学期が無愛想に始まりの合図を投げかけてくる。青々と茂った銀杏並木がキャンパスの玄関口で騒々しく待ち受けていることだろう。
 僕は雨戸に手を掛けて、思い切り外気を吸い込んだ。鼻腔を通り抜ける空気はぼんのりと冷たい。夏は終わったんだな、と僕はもう一度思う。
「さっき、だれかに夏の終わりを告げられた気がするんだけど、何だったかな……」
 夕飯の支度をしなくては、とふと思い出し、雨戸を一気に閉める。閉めた際に部屋のなかに隙間風が吹きこみ、草いきれがふわりと舞い込んできた。
 確かに夏は終わった。今年の夏はもう終わってしまって、始まりと終わりはあって中心がない秋が、まもなく始まるだろう。季節は巡り、色や風を少しずつ変えていく。僕もその巡りに合わせて、少しずつ、変わっていく。
 何かが僕に夏の終わりを告げていった。少しだけあたたかくて、真っ白な何かが。それをもう具体的に思い出すことはできないし、思い出そうともしないだろうな、と僕は思った。ただ、それはあたたかい風のように、優しく、そして少し切なく揺れながら、僕のこころの中心を静かに漂っていた。