Center Town


 鳩が歩いて、人間も歩いている。トラックが止まり、その脇を原付自転車がすり抜けていく。標識が地面をひたすらに見つめていて、信号の色がパッと変わる。
 僕はそれらを白い歩道橋の手すりに寄りかかりながら見るともなく見ている。人と物の動きのコントラストに根元的な疑問の混じった感動が呼び起こされる。
 以前にも似たようなことがあったのを思い出す。横浜駅に停車中の東海道線に乗っていたときのことだ。開いているドアの近くに凭れて、駅舎の屋根や雨樋の行き先に目を走らせ、電線の間からのぞく高層ビルの電光掲示板の文字の流れを追って見ていると、構内アナウンスや人々のさざめきの背後に、ぼんやりと街の動静が浮かび上がってきた。その原始的発見に僕はなぜだかふと、ああ、ここで僕は生きているんだ、と一頻り思ったのだった。
 歩道橋の下を走る国道のはるか先の方に特徴的な灯台が見える。どのように特徴的なのかというと、先端、つまり上部に向けて広がっていく形をしているのだ。メガホンや拡声器の口の広い方を上にして立てたような感じだ。数年前までは先細り気味のやや寸胴な、ごく一般的な形状の灯台だったのだが、気づけば今のものに摺りかわっていた。灯台を見ながら、あれはもう灯台というより、ちょっと変わったホテルみたいだな、と腕についた手すりの砂埃を払い落としながら思う。
 部屋に戻ると、すでに夜の七時半を少し回ったところだった。作り置きのおかずとタッパーに入れたご飯を冷蔵庫から取り出して電子レンジで温めながらぼんやりしていると、背中から窓を叩く軽快な音が聞こえてきた。
 このごろ毎日夜の八時ごろになると、一匹のカナブンが僕の部屋の窓をコツン、コツンと叩く。コツンの前には決まってブーンと羽を震わす音が聞こえてきて、それが小さな訪問の合図だった。それは電子レンジの音に似ている。確証は持ちようがないけれど、僕の部屋の窓を訪れるカナブンは毎回同じカナブンのような気がした。きっとそうに違いない。
 二層のカーテンのうち、外側の厚手のカーテンを閉めてしまうと、カナブンが窓を叩くことは決してない。昼用の薄いカーテンから漏れ出る部屋の照明に、カナブンは吸い寄せられるように向かってくる。すぐ向かいには隣の家の窓があるのに、僕の部屋の窓の光にだけ興味を示しているようだった。僕が厚手のカーテンを閉めると、カナブンはまた夜の闇のなかへと戻っていく。それが僕らのおやすみの合図なのだった。でも僕の方はというと、そのあとしばらくは明かりの下で好きなように夜の自由時間を過ごしている。
 次の日ももちろん、小さな訪問者はやってきた。少しだけ乱暴なノックで僕はその存在を確認する。今夜はクーラーのスイッチは切って、窓を開けていた。網戸とガラスをはじく音が交互に聞こえてくる。
「こんばんは」と声をかけてみる。なんとなくよそよそしい感じがして、今度は、
「よう」と言った。ブーン、コツン、を返事だと思うには、いまひとつ物足りなかった。

 子どものころに読んだ本に、虫が夜のあいだ光に引き寄せられることについて、何か書いてあったのを覚えている。「虫は夜、月明かりをたよりにして進む方向を決め、飛んでいる。街灯や信号のまわりを飛び回っているのは、それを月だと誤解しているからなのだ。」というような話だったと思う。当時その箇所を読んだとき、得も言われぬ空しさが押し寄せてきたのだった。虫が街の小さな明かりを月だと誤解していることを気の毒に感じたわけではない。そうではなく、その文章があとにこのように続いていたからだった。「だから、夢は大きい方が良い。」

 カナブンの訪問は七月の折り返しくらいから始まり、八月の終わりに至るまで続いていた。それに毎晩といっても、僕が早めの時間にカーテンを閉め切った夜には、窓を叩く、というか窓にぶつかる軽快な音は聞こえてこなかった。隣の家や部屋の窓に突撃しにいったのかもしれなかったが、それはおそらくなかっただろうと思う。あのカナブンは、かならず僕の部屋の窓に突撃してくるのだ。
 九月に入ってすぐ、僕の住んでいる家で工事が始まった。外壁の補修と塗装、それに電線の付け替えが主な工程だった。工事初日、足場の建設とともに家のぐるりを防護用の青い網で覆われてしまった。日も暮れかけたころ、作業服の男たちが颯爽と大きなトラックに乗って帰っていった。その日の夜、カナブンは僕の部屋に来ることはなかった。僕はしゃあっと勢いよくカーテンを閉めてから、ベッドに入ってスマートフォンを弄り始めた。
 もちろん次の日も、その次の日も、僕の部屋の窓にカナブンは来なかった。

 工事は二週間余りで終了し、外壁は灰色から茶色掛かった灰色に変わってところどころの綻びも補修された。僕は作業服の男たちに窓越しに挨拶をし、見送ったその足で、ふらふらと散歩に出かけた。近くの公園は芝刈りを済ませたばかりのようで、青くさい匂いの漂う空気のなかを無数の赤トンボが飛び交っていた。
 すでに日は落ちかけていた。コンビニへ寄ったあといつもの歩道橋に上がり、光波をあたりにふり回しているあの灯台を眺めた。手すりには以前に増して砂埃や汚れやしみが積もっていた。僕はあの灯台が月ではないことを知っている。虫とは明確な差異を僕は頭のなかに持っている。でも、それはどちらの方が幸せなのだろう? あの灯台の光を月明かりだと思える方が、もしかすると本当は幸せなのかもしれないじゃないか。だめだだめだ、幸せについて考えるとキリがないというものだ。僕はコンビニの袋を手に持ち直し、家路を歩き始めた。
 自分の家とは思えない、工事によって様変わりした外装の出迎えに、ほうと一息ついてから部屋に入った。鍵を靴箱の上のフックに引っかけてから、部屋の電気を点けた。クーラーをいれる必要のない、しんと涼しく過ごしやすい秋の夜だ。
 僕はコンビニで買ってきた弁当を電子レンジで温め始める。「30秒」を過ぎたあたりでコツン、コツンと何かを叩くような音が聞こえてくる。電子レンジのなかをのぞくと、肉汁が小気味よく泡立ち、跳ねているのが見える。「1分」がたち、弁当を取り出して窓際のテーブルにつく。
 しばらくの間、コツン、コツンという音が聞こえつづけている。僕はそれが何の音なのか、知っているつもりで、実は何もわかっていないのかもしれない。僕はその姿を、カーテンを開いて確かめたり、カーテンの向こう側にじっと目を凝らしたことなど、一度もないのだから。それは想像と同じかもしれないし、違うかもしれない。
 ふと、僕の脳裡を、街が動いていく様や灯台の回りつづける光や淡い青の月明かりがよぎっては去っていった。実時間と僕の意識の流れが交わるようで、一つも噛み合う気配が感じられない。僕の意識はただひたすらにぐるぐると円環を描きつづける。そうしてまた、コツン、コツンと外側から音が聞こえてくる。だから、夢は大きい方が良い。
 僕は部屋の電気を切り、カーテンを閉める。時計の針はまだ八時を少し過ぎたあたりを指しているのに、物音の一切が消滅したような淋しさが部屋を充満している。サーモスタットの駆動音だけが、後を引くたった一つの手がかりとして暗闇の奥から届いてくる。大丈夫、僕は大丈夫だ。皮膚の震えを感じながら、ゆっくりと深く呼吸する。震えはしだいに収まっていく。僕は僕の範囲を取り戻していく実感を、冷たく汗ばんだ手のひらのなかで握りしめる。そして部屋の隅々を見回してから、最後に自分の身体を視界に収める。大丈夫、これは絶対に、間違いなく僕だ。どこかへ行ったりしないし、何も変わったりしない。
 夏の終わりの完璧な静けさが僕の部屋を包み込んでいる。その静かな中心で、僕はコンビニで買ってきた生姜焼き弁当を食べ始める。