キック・オフQ

 

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 ひとつのサッカーボールが半分埋まっている。グラウンドの隅の下草のあいだに。時刻は早朝。ところは四丁目のグラウンド。運命的な導きによって、僕はこの時間のこの場所にとりあえず背筋を伸ばして立っている。砂のグラウンドだが砂埃は舞っておらず、あの運動欲を刺激する砂っぽい匂いだけが舞っている。
 運命というのは偶然と同義で、偶然は実際と同義で、実際は運命と同義だ。僕がここにいて、何の変哲もない五号大のサッカーボールがグラウンドの隅の方に埋まっている。けれど、今は誰もそのことに気がつかない。気がつくのは大分先のこと、いや案外もうすぐのことかもしれない。明確な時やタイミングは定められてはいないのだ。いつか、遠い未来近い未来、僕がその地面に半分埋まっているサッカーボールを見つけることになる。それはもう決まっていることだ。そもそもの話、これを書いているのは、その遠近法的未来を超えたさらに先にいるこの僕なのだから。僕が見つける。ただ、見つけるというよりも、やはり気がつくという方がいくぶんしっくりと収まる感じがする。僕が気がつく。
 そこで僕は曖昧な、けれども不可欠な判断を下すように迫られる。別に誰かに脅迫されたりするのではなく、自分が自分自身に迫る。それは一見するところ単純な選択なのだが、いささか観念的な部分も含まれている。
 これはその二択だ。

 一、サッカーボールを取り上げる。
 一、サッカーボールをそのままにして、その場を去る。

 分かりやすい二択。僕はそのどちらか一方を必ず採ることになる。採らなければならない。あいにくその場に居合わせるのは僕ひとりだけで、あたりを見回したところで草と砂の匂いと無音に包まれた気持ちの良いグラウンドが広がっているのみである。
 もちろん、僕は決めた。そこらに漂うありったけの万有意志を掻き集めるように大きく息を吸って、はたまた実直で決然とした眼差しで、けれどもすべてを諦め切った末の青白い透明のこころで、僕は決めた。
 そうはいうものの、何もこれはそんなに大それた選択じゃない。サッカーボールを取るか取らないか、結果としてそこに少しだけ目に見えない作用がはたらくことになる。それだけの話だ。どこにでもありふれたようなことだし、実際ほとんどの場合は多少の規模の差はあっても、選択とはそういうものではないか。で、僕は決めた。
 どうだろう。僕は正しい選択をしたのだろうか。それとも逆だろうか。僕が選んでおいて何だけど、いまいちそういう実感が湧いてこない。まず初めからして正解があったのか? いや、正解なんて無かっただろう。けれども、正解のない選択に正しいも糞もないというのは、それは違う。よくわからないけど、違う、とだけは断固として言える。
 とにかく、僕は決めた。あれ、本当に決めたんだっけ? 急に自信がなくなってきたぞ。僕は何を何するために何に決めたんだ? 何に決めてないんだ? とにかく、何かを決めたか決めなかったかした。その瞬間から時間は再度回り始めて、再度止まる気配は一向にない。そもそも時間が止まることなんてないのだから、止まっていたのは僕ということになる。僕のまわりで回り続ける時間の、その中心の淵で止まっていた僕が動き出した。メリーゴーラウンドの住人として。僕は口の端が歪みかけた茶色い馬の背にまたがった。
 メリーゴーラウンドの上でゆったりと垂直に揺れながら、僕は思う。正しい選択をしたのだろうか、と。選択するしないの選択を間違えはしなかったかと。メリーゴーラウンドは相も変わらず回り続けている。回り続けている。単純で、すこしだけ観念的な、そしてたぶん、ほんの少しだけ感情的な僕の意志は、動き始めた時間のなかにこれから居場所を見つけに行く。いや、気がつきに行く。

 と、つらつらと不可解な状況を並べ立ててきたわけだが、ここまで記したものごとはすべて僕の夢のようなものなので、何一つ気にしなくても構わない。何を今更という向きもあることは僕も承知している。だが、むしろ、今までの経緯を全部忘れてしまっても僕としては笑顔で迎える用意がある。僕の夢なのだから、といってそれをなべて当事者である僕も覚えているなんてことはないのだし、少しだけ夢中から溢れ出てしまった断片もしくは連続体がこうして脆く緩やかに形を成しているのだと思ってくれればそれでいい。夢と現実の不意の混和に、そのあいだにある何かしらがびっくりしている一瞬のゆれ、、ゆれみたいなものかもしれない。
 でも、こうするしかなかったのだ。僕とサッカーボールとの探り合いのダンス。サッカーボールが半分埋まっていて、僕ひとりがそこに立って、何かを決めなくちゃならない。そこから僕の物語は始まるし、始まりのような終わりのような始まりを迎える。その時の僕がいて、その前の僕がいて、その後の僕もいる。メリーゴーラウンドと時間と僕。僕の夢はここから始まり、現実に帰ったりしたあと、旋回し出し、戻り、また戻ったりして、少し進んで、また始まる。サッカーボールがひとりでに穴から飛び出すなんてことは、たぶんない。だって、曲がりなりにも形ある意志を持つのは僕の方だけなのだから。
 曙光がグラウンドに射し込み始める。僕はまだ、半分埋まったサッカーボールに気がついていない。僕はまだ、始まりや終わりなんてものの環に溺れつつあることも知らない。僕は今、この時間のこのグラウンドに立っているだけなのだ。そして、そう、立っていたのだ。模範的で義務的な太陽の目覚めの刻。砂の匂いをすうっと吸い込む。清々しい、何てことない一日の朝。ひっそりと、けれども確かに、メリーゴーラウンドが速度をあげていく。現実と夢、時間と空間、気持ちの良い朝と僕、あらゆる透き間を陽光が貫いていく。キック・オフの時は、すでに僕を捕らえ始めている。