5年前に実家でSWAN SONGをプレイしていた時、あるいは2年前に荻窪でMUSICUS!をプレイして玄関で気絶した時以来の酒酔いが発生しているので、比較的まともな文章が書けそうだなというので書き始めています。酩酊状態のほうがちゃんとタイピングできるってどうなのとは思っている。

 

ここ2年、フリーターを辞して就職、そして無職の現在に至るまでの備忘録して、何かを残しておきたいと思った。なんで泥酔状態でこうなるのか。

まず、フリーターの1年を過ごした品川からここ荻窪に越してきたのがちょうど2年前のこのくらい、2022年の2月ぐらいのことだった。自分としては別にフリーターになりたくてなったのではなく、健康状態・精神状態のゆがみがあって、就職活動と大学の卒業単位の達成を両立することが困難だと判断したうえで、そうなった、つまり結果的にそうなっていたというだけのことだ。武蔵小山のファミレスで1年、ホールで立ち働いた。数百回レジを打ち、料理をお席にお運びし、パフェを作った。(ちなみに当店ではいちばん手際よくチョコレート・パフェと季節のパフェの塔をたてることができた)

その傍らで、正社員の雇用口を探していた。ようは「就活」をしていた。こんなことをしている人間は、少なくとも僕の周りにはいなかった。つまり、大学を卒業してもちんたらパフェを作っている非パティシエ志望の人間は皆無だった。

 

 小学生くらいのときに、何才の時に中学生になって、何歳で就職して、と先のことを予想していたけれど、それはもう狂ってしまった。

 別に惜しくはないけれど、当時思い描いていた自分が今もどこか別の世界で生きていて、ここにいる自分は別の裏側の世界に迷い込んだ影のような気がする。

――『MUSICUS!』より

 

県内有数の進学校から国内有数の私立大学に進んだのに、こうなる人間もいる。

アウトロー方面にずれていったのならわかる。しかし自分はただ、単純にずれてしまった。ここをどう説明したらよいのか、いまだにわからない。たぶん僕には脳みそがないのだと思う。

 

そういった経緯から、自分はいわゆるホワイトカラーと呼ばれる環境で生活していく資格がないのだろうということはうすうす気がついていた。自己卑下ではなく、そう解釈できる土壌がそこにはあったからだ。

僕は小説が好きだった。だから、出版社で人生を終えたいと思った。(その当時は本気でそう思っていた。今ではとんだ馬鹿だとわかっている)いくつか有名企業の門を叩くことを繰り返したが、鳴かず飛ばずだった。とにかく退屈な時期だった!そりゃそうさ、僕は出版社員として働くことが好きだったのではなく、小説が好きだったのだから……!

 

同時に、アニメ会社も1社だけ志望していた。そこは老舗の、まあ超有名といってもいい会社だった。

僕はアニメが好きだった。

2010年12月、山の上にある友だちの家で4人集まって観た『涼宮ハルヒの消失』が直接のきっかけだった。その年、夏ごろからライトノベルが、それも涼宮ハルヒシリーズが中学校の教室で流行っていて(それは確かに流行りと呼べるものだった。僕も恥ずかしながら授業中にひたすら読んでいて、授業終りに連行され没収される際、なぜという問いにとても面白いからと頓珍漢な回答をした)、TSUTAYAでレンタルが始まったということで観たのだと記憶している。僕は当時、その流行りの先頭からは一歩引いたところに位置していた。だからこその衝撃だった。あの『涼宮ハルヒの消失』という劇場作品は、中学2年の僕にはあまりに先進的でエモーショナルだった。

山を自転車で駆け下りながら(僕の記憶では何回転も前転する映像が焼き付いている。それほどまでにまさしく駆け下りた)、すごい、すごい、と叫んだ。

その日から、愛用していたPSPプレイステーション・ポータブル)2000 ピアノ・ブラック をインターネットにつなぎ、当時蔓延していたpsp向けアニメ個人サイト(pspに1クリックでmp4ファイルのアニメがDLできた)で片端から全部観ていった。

(当時、その流れで一番最初に観たのがCLANNADだった。これは単純に名前の魅力だけで選んだので、京アニつながりだとか、純粋に人気だったというのは、数か月後に知ることとなる。つまり僕は、アニメというものに運命的な出会い方をしたのだ)

来る3/11が起き、まどマギがあり、個人サイトに新たな法律の規制の影響から更新を停止する文言がNEWS欄に並んだ。FATE/ZEROがあった。そのすべてが好きだった。それしか僕にはなかった。

 

 

僕は2010年12月から2012年6月ごろまでの、一生分に比肩するアニメ・オタク生活の残滓を、2024年2月になってもまだ纏っている典型的なアホだ。

 

 

アニメ会社に就職をした。制作進行という役職は、みなさん『SHIROBAKO』というアニメで知った向きも多いのではなかろうか。安心してください、白箱ということばは今でも業界でつかわれています。実態はmovデータもしくはDVDですが。

2年弱いて2作品に関わったのだが、業界で話のネタにされるほど悲惨なスケジュールの2作品だった。

そもそもこの業界は変わりつつある。その変わりつつある中で、変わっている、つまり適応を目指しているスタジオはいいが、そこを意気込みを抜きにして目指せていないスタジオはただただつらい。後者だった。

アニメというのは、とてもいいものだ。だが、とてもいいアニメをつくることはもうできないのだ。

この記事を書き始めた最初はなんでもかけると思っていたが、これはとても難しい作業だ。あまりに濃密な時間を過ごしたにもかかわらず、過ぎたものを語るとき、それはガスのように目に見えない何かとなってつかみどころがなくなってしまう。

とてもつらく、不明瞭で強烈な体験感覚だけが残っている。

放送・上映にどうやっても間に合わないという危機感、どうにかして間に合わせる奥の手(それはもはや奥の手ではなく、常態化した奥の手、つまり定石である)、言い訳、失望感、解放・・・その繰り返し。

休日という概念はない。木曜日の28時に進行車で外回りに行き、作業し続けていたら気づけば月曜の14時になっている。体調は崩れない。なぜなら間に合わせなければならないゴールが存在しているから。誰もがそれを苦行だと思っている。僕も思っている。ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる・・・

 

何曜日だったか、何時だったか、その何もかもがなくなった時間、僕は自室でPCのモニターをみていた。何かの音楽を、イヤホンをつけていたかいなかったか、聴いていた。

その時、僕はこの仕事をやめようと思った。

 

創作活動というものに限りなく近くで動く創作者ではない者。

それが制作進行という職分だ。

だからこそ、自分は何もできないという焦燥が生まれ、心の深い部分に根付いてしまう。

何者かになろうとしても、時間間隔は狂い、自分を含めた人格破綻者の”子守り”をしつつ、まともな会話を隣の席の人として、気づけば翌々日の太陽が昇っている。

SCLLを聴いているととても哀しくなる。あまりにことばがきれいすぎるからだ。

 

酔いが気分の悪さに変ってきたので、もうやめます。

最近ベオグラードメトロの子供たちをやりました。とてもよかった。

さようなら。

家庭の医学

 

こんにちは。

 

^^

 

たぶん僕は14年前にいちど戻って、帰ってきたのだと思う。

微妙にかたむいたハッピーにすいこまれそうなところを這いました。

よかった~~~

 

退職後2週間が経つところで、明日までに役所に行く必要があるのだけれど、

風呂には入れないしその言いわけを不調のガス給湯器になすりつけているのでさきほど二度オナニーをしてとてもかなしくなりました。

もうすぐ27回目のハッピーバースデイだ。まったくハッピーではない。死ね。

こうやってマジの底辺社会人がいっちょまえに退職エントリーをかいていることに危機感をおぼえています。退職エントリーなんてまだこの世に存在したのかと驚いていますが、かいているので存在してました。転職などはしておりません。ただ円満に職を辞したので勘気を蒙りはしませんでした。穏やかに死にゆく無職というわけですね。

 

やりがいのある仕事ではありました。仕事というのは(「仕事というのは」!)やりがいを認識できる人間が過程として損をするものだと思った。こうして一般化をしてしまう自分はやはりどことなく馬鹿ですね。

奇妙な仕事だとは思っていた。その分いろいろと融通はきいたし、22時に入って朝まで稼働してそこで帰ってもそのまま居続けても問題はない。これは単なる時間的な話ではなく、生き物を相手に行動しているからだ。この生き物というのは、半分は生物というそのままの意味であるが、半分はまた別な生き物のことです。もちろん僕も生き物なので、あるゴール(それは段階的なものだ)が用意されているルートを辿るうえで、僕も生き物たちにあわせる形でいろいろな生き物になる必要があった。僕は僕という生き物が好きなので、僕は僕という生き物に還ってきた。

 

現在。

僕という生き物はたしかに存在していたはずだが、輪郭のない不恰好な殻となってしまっていた。

呆気にとられてしまった。殻に籠ってしまいたいと思った。今なら比喩ではなく、感触を伴った殻をセーターに首をつっこむみたいに着込むことができるのだ。

しかし殻はどこにも見当たらなかった。なぜかというと、「僕という生き物はたしかに存在していたはずだが、輪郭のない不恰好な殻となってしまっていた」からです。

混乱しています。助けてくれ。

 

生まれてこの方旅行をしたいと思ったことがなかったのですが、どういうわけかいまとても旅行をしたいと思っています。これがどういう意味あいの旅行をさしているのかが自分でも判然としない。意味あいというのはたとえば「傷心旅行」だとかそういう具体の意味あいではなく、もっと欲望的・根本的な意味あいです。

突然のヘイトで申し訳ないが、僕は「観光」という体験を狂気の沙汰だと思っています。狂気がどちら側にあるかはもちろん自覚しています。

 

要するに、今の僕は陰茎ではなく膣なのだ。

 

末筆ながら、この世のすべてがハッピーであることを願っています。

さようなら。ハッピー。

 

 

ダーク・インゲはにこりともしない女だった。

記憶力のいい人間というのはたしかにいて、それもけっこうな数の人間が多くのことを記憶しそれらをいろいろなことに役立てたり、役立てなかったりしている。

それはとてもうらやましいことである。

何かを憶えているということは、そのまま生活のくだらなさにつながっていくと思う。くだらない生活がしたかった。ああいうくだらなさや、こういうくだらなさ、いいなあと思う。どういうくだらなさがうらやましいのかがわからないのは、もちろん、ぼくの記憶力がいちじるしく欠如しているからである。

 

おっぱいの大きいフィギュアを三つ買った。

その安堵は開封後20分ももたず、ただのセックスシンボルとなった。

 

ずっと何かのパーツが足りないという気がしていて、そのパーツを埋めたいなとずっと思っているのだけれど、パーツはどこかから急に一方的にやって来るものではないし、アマゾンとかで購入できたりもしないし、目が覚めたら枕もとにそっと添えられていることもないし、ぼおっと窓の外をながめていたら通り過ぎていって待って止まってなんてこともないし、たぶん自分がいいかんじに行動していいかんじに埋めるものなんだけど、それは本来どんな形でもあってどんな形でもないからとりあえず当てはめてみてまわりの本体をうまい具合に調整していくのがいい、本体というのは自分自身のことでそれは本来自分自身なのだから自分のすきなようにぐにゃぐにゃとできるものであって、でもやっぱりおれは自分というものに合いそうだと思ったパーツを気持ちのいいところにつけたいわけなのであって、それは気持ちがいいけれど気持ちがいいだけで何も変わらなくて、日高屋の野菜炒め定食を毎日食べることと変わらないというときみはキレて日高屋から出て行ってしまって、おれは得体のしれない料理とにらめっこしていた。